プロフェッショナル

 曇り、気温も17,8度ていどである。日中は晴れるようで徐々に気温は上がるようである。

 プロフェッショナルという言葉は皆さんご存知だろう。いわば専門職として一人前と認められると呼ばれる称号である。プロと呼ばれる以前は、アマチュアと呼ばれる。それは入門者のレベルからプロ目前という人を含め範囲は広い。

 最近、気になることは、プロフェッショナルを目指す人たちが減ったように思われることである。いわばプロ手前の地位で構わないという風潮である。

 それは社会が豊かになり、その半人前のレベルでもある程度生活ができるようになったからではないだろうか。以前ならプロと半人前では、待遇に極端な差があったはずである。それがいつの間にか、平等という建前から、同じ仕事を同じ時間するなら報酬は同じという仕組みが作られた。
 
 それでも向上心を持つ人は、待遇が同じであっても、周りから尊敬や信頼を得られることを願いプロフェッショナルと呼ばれる高みに到達しようと努力を重ねたはずである。
 その向上心を持つ人が減り、同じ待遇なら楽な仕事をすることを目指すようになった。それは、アリとキリギリスではないが好きなことをやって生活できるならキリギリスの生活を望むのは想像できる。

 更に今の時代、製造業も機械化および電子化が進み、ある程度の能力があれば規格内の製品が作れるようになってしまった。そこにプロフェッショナルとしての能力を発揮させる範囲が狭まってしまったことに由来することでもある。

 しかし、そういった能力を発揮できないようなところでも、人間の性とは恐ろしいもので何とか工夫とアイデアでその人間としての能力を発揮させようと努力を続ける人間は存在し、現にその分野でプロ意識を持った人間がいないわけではない。

 ただ今の日本が不味いのは、そのプロ意識に欠けた人間が、国を動かしていることである。更にそういったプロ意識に掛けた人間は、自分の下に能力を持った人間が力を発揮することを嫌う人間が多い。まさしく出る杭を打つにんげんである。

 どうしたらその現状を打破できるかは、今いるプロ意識を持た人間が発言あるは行動するしかない。どうしてもプロ意識を持った人間は、自分の才能を公にしたがらないことが多い。その隠れた職人技を持つ人間は、いなくなって初めて周囲がその技で仕事が捗っていたことに気付く。
 その才能が発揮されていた時は、その人が簡単そうにやってしまうため、他の人でも簡単にできるだろうと周囲が錯覚してしまうのである。

 そうしてプロ意識を持った人間は静かに表舞台から去り、半人前のプロ意識を持たない人間が声高に叫ぶ能力だけで自分を過大評価させ生き残り、多くのプロフェッショナルな人間を淘汰していくのである。

 今の日本にその再生の能力があるか今この時期だからこそ問われているのだと思う。