法治国家

 晴れ、気温はマイナス15度くらいと冷え込んだ。


引用 スポニチhttp://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/02/20/kiji/K20130220005232020.html

京都府亀岡市で昨年4月、集団登校中の児童らの列に車が突っ込み、3人が死亡、7人が重軽傷を負った事故で、自動車運転過失致死傷と道交法違反(無免許運転)の罪に問われた無職の少年(19)に、京都地裁は19日、懲役5年以上8年以下の不定期刑(求刑懲役5年以上10年以下)の判決を言い渡した。

 危険運転致死罪の適用を遺族は求めていたが、3人の命を奪ったにしては軽い判決となった。法治国家の日本に於いて、車による死亡事故は、あくまで自己の範疇に含まれる。

 それは、車によって人を跳ねたとしてもそれが故意か過失かの判断ができないことによるものだろう。故意であれば殺人罪であるが、車社会の日本では、道路上の地位は、車の運転手の方が高く歩行者はその下という上下関係が存在する。

 そのため、どんなに多くの人を跳ねて殺したとしても、心神喪失等や過失によるものは殺人では無い。秋葉原事件のように多くの人を撥ね更に車から降りて人を刺し殺すまでの明確な殺人の意図を明らかにしなければならないのだろう。

少年は、遺族らに目を向けることなく法廷を後に。裁判長から犠牲者の冥福を祈り続けるよう言われた時、返事はなかった

 そして、この少年にとって、責任は自分以外の所に有って自身に責任があるとは思っていないと思われる。もし。これが懲役10年であったとしても本人に何の効果をもたらさないだろうと感じる。

 もし、刑務所の中が地獄のように悲惨だったとしたら誰も刑務所に近づかないしようと思うだろうが、人権を尊重される環境になっている現代では、刑務所に入ることさえ厭わない人間が少なからず存在する。刑務所に入る前でも入った後でも自分の境遇が変わらなければ、刑期を務めることさえ何の心の変化をもたらさない物だからである。

 こういったものは、正常な生活をしている者にとって辛い物であって、日常が刑務所の中と変わらなければ何の痛みも引き起こさないだろう。

 このように危険運転致死罪が有ったとしても、事故を防ぐ抑止効果は薄い。その効果が表れるのは事故を起こした事後だからである。事故を起こす前は、不思議と皆自分はそんな事故を起こさないと考えているものだからである。少々の危険が有ってもその危険をスリルと感じて挑む人間は、日常道路を走っていれば当たり前のことであるし、安全運転を行う意識づけに非常に乏しいものである。

 効果が有ったと思われるものに、飲酒運転の厳罰化であるが、その効果もその罪を何とも思っていない層には、効果は薄い。やはり効果があるのは社会的地位にあるものに対してだが、実際、社会的地位にあると思われる警察官や公務員が摘発されるようでは、徐々にその効果を失ってきているのかもしれない。

 そもそも飲酒運転の取り締まりに会う事は、それ程頻発では無く、これも事故を起こしてから発覚することが多いからである。

 人を法で治めると言葉にするのは、簡単である。しかし、実際に全ての国民がその義務を持って日常生活を行っている訳では無い。事件事故やいざこざなどを起こして初めて法律によって自分が縛られていることに気付く。

 それが法治国家の現実である。本当に生易しくは無い。