晴れ、気温は6度。
フジテレビの視聴率が3位になったのは去年の事である。俺たちひょうきん族の頃から、面白くなければテレビじゃないのキャッチフレーズで、吉本興業と手を組み、軽佻浮薄路線を突っ走ってきた。それは本当に時代の雰囲気とマッチし、国民に受け入れられてきた。
日本のテレビの動きは、視聴率というものに支配されている。視聴率が無ければいくら良い番組を作ったと言ってもテレビ局側が切った。そして、視聴者から批難を浴びても視聴率が良ければそれはテレビ局にとって良い番組だった。それがテレビ番組だった。
更に視聴率を取れるタレントを如何に使うかがテレビ局の最大の目標であり、そのために囲い込みや争奪戦が行われ、当然人気役者やタレントを使うために、その同じ事務所のタレントをバーターで使うというのも常識で、そのため徐々に事務所のテレビへの影響力がまし、どのテレビ局を視ても、同じ事務所のタレントばかりという現象が強くなってきてしまった。
その流れが変わったのが、韓流ブームだった。その時の多くのテレビ局が追随したのだが先頭を走ったのがやはりフジテレビだった。その時、日本のテレビ局は、吉本、ジャニーズという2大グループが居なければテレビ番組を作れないような雰囲気だった。
しかし、韓流は違った。日本の事務所に所属していないため気楽に使え、ドラマなどは日本で作るより割安ででき、更に冬ソナに代表されるドラマは、今までの日本で見慣れていたものと違うため、多くのファンを産んだ。
その時、日本のドラマ制作は弱体化を始めたと言って良い。良くも悪くも制作の場が無ければ埋もれた才能も花開かない。限られたドラマ枠は、韓流に占められ、日本の局でドラマ制作に携われるのは過去にヒットした経歴のある人間だけに成れば徐々にマンネリ化するのは当たり前である。
そうやって、日本のテレビ局は、自分で自分の首を絞めてきた。テレビ離れが始まると当然スポンサーが減り、制作に回る金が減り、人件費を切り詰める前に制作費を切り詰めたからである。それは自分たちの力を削ぐことに気付かないか気付かないふりをしていたのである。
そうなれば坂道を転げ落ちるようなものである。テレビ番組は今までの慣例通り視聴率で出演者を決めて居れば、同じ顔触れは一層強くなり、吉本、ジャニーズ、AKB、オカマはどのチャンネルを回しても顔を出てくる。
制作側に余裕が無いから新人は余程の事が無ければ出演させられない。安全なところか事務所のバーターの新人ばかりでは、何の代り映えもせず。どんどん使い捨てにされていく。あの人は今状態である。
時代の先頭を走ってきたフジテレビが脱落するのは、当然の理であり、流れであった。もし、今の流れを変えるチャンスがあったのは、ホリエモンの買収騒動の時だったのかもしれない。あの時のテレビ局のパッシングは凄く、それがホリエモン落としにつながったのだと思うが、テレビの力はあの当時まだ存在した。
今、メディアの力は弱まってきている。それを盛り返そうとメディア側は必至である。一までの既得権益は、原子力村と同じく同じムラに住む住民にとっては共通の利益構造に他ならない。メディアという村に住むためには、村民が一致して行動しなければならず、この先の未来を見越して自分たちが生き残るためには陰に陽に行動する。それは、形としては目に見えないものだが、そこに住む村民がバラバラでも考えることが同じであれば集団としての意思は統一され、無意識に同じ行動をとるようになる。
更に自分たちの身を守るためには、権力と癒着する。それは読売新聞の例がそれを象徴している。何時でもそのやり取りは国民に見える様には動かない。後で歴史を振り返ればこういう取引が有ったのだと明らかにされるのだが、過去の話を蒸し返されてもその時に戻ってやり直すことができないのなら情報を得ても無駄になる。
今、少しずつ権力構造が揺らいできている。徳川家が権力を持ち200年生きながらえたように、きっと権力の寿命は最大で200年なのだろう。どう工夫しようともそれが権力というものである。流れには逆らえない。その方程式は、どの分野でも同じなのだろうと思う。