共感

 曇り、時折強い風とそれにのって小雪がちらつく。気温はプラスの1度。気温の高さにびっくりするとともに、急激に温かくなったので、道路の圧雪が融けてぐちゃぐちゃになって歩きづらい。


 ネット上でもそうだし、実在空間でもそうなのだが、意見に共感する部分があるけれどしばらく読み続けるうちにこれは違うと思う事がある。ただ、一時期その考え方が一致していたことは間違いない。

 では、その異なる意見の部分をどう受け止めるか、ネットの場合、全く厭になれば情報を遮断すれば良いだけで済む。現実世界と比べて非常に簡単なことである。

 ただし、自分の意見とは違うが、そういう考え方もあるのだという事に感心する場合がある。その場合、今まで意見が一致しているなと思っている時には、余り起きないものである。

 きっと今まで自分の意見と同じだったのに、急に論調が変わることで裏切られたという思いが強いのであろうと思う。常に意見が異なれば、この人と自分の考えは違うものだという観念で眺めていたものが、違った切り口を改めて見せてくれることで感心してしまうのだと思う。きっと、今まで共感を覚えていた書き手に対する近親憎悪的な感情が違いを生むのだとは思う。

 現実社会でも同じことである。今まで自分の意見と同じであると考えていた人が、結果は同じだとしても、この部分は違うのだと感じた時、少し今までと同じ話し合いをするのが困難になる時がある。まさしく、その時は、丁度夫婦が性格の不一致で別れるようなものである。

 今まで、同じ生き方を望んでいて同じ屋根の下に一緒に暮らしたいと思っていたはずなのに、僅かな意見の相違で全てを否定してしまうようなものである。それなら最初から意見の合わない相手と暮らした方が上手く行っただろうと思うくらいである。

 きっと同じ思いを持つ人と感じるのなら、付かず離れずの関係にいた方がお互いに幸せなのだと思う。すべてに意見が一致しないことを理解したうえでグループを作るとその考え方アプローチの違いなどが大きな亀裂を生むことは大いにある。

 年齢が若いうちは、烏合集散で付き合いも深く付き合い、いつの間にか離れて行くという事は、大人になるための階段のようなものだと思う。そういった経験を積むうちにそれが当たり前の世界なのだと皮膚感覚で理解していく。それが判らなければ社会に出ても苦労するだろう。

 年齢を重ねるうちに、徐々にそういった濃厚な付き合いは避けるようになってくる。ある意味、お互いの距離感が判るからである。それがある意味大人の付き合いと割り切っているからである。しかし、そういった距離感を持たない人が集団を率いるとなるとこれまた別である。その集団は遠からず宗教集団のように成る。

 その強制された空間で生きることが心地よいと思う人はいるだろう。しかしそれは共感では無くて洗脳に近い関係になるだろう。

 大人として生きて行くには、徐々に付かず離れずで程よい距離感を持って付き合う事が大切だし、ネット上に於いては、実社会と異なるため、程よい距離感では無く、自分に合わないと思えばその情報を遮断すべきと思う。