晴れ、少し風が強く猛暑は一段落した。気温は、17度。


 昨日書いたように、中国では天安門事件の25年目の日だったが、目立ったことは無かった。

引用 日本経済新聞http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0400Z_U4A600C1MM0000/

中国共産党が学生らの民主化要求運動を武力で弾圧した1989年の天安門事件から4日で25年を迎えた。習近平指導部はこれまでに事件の見直しを求める民主活動家らを相次いで拘束するなど、例年に増して神経質な対応をみせている。事件に触れる中国メディアも皆無だ。事件現場となった北京市内の天安門広場周辺は4日朝から、小銃を構えた武装警察が巡回するなど厳戒態勢が続く。

 普段はにぎわう天安門広場で、時折列を作って行進する武装警察が異彩を放つ。物々しい雰囲気のなかで、観光客の入場者数も制限。広場の入り口では公安が入場者の手荷物を細かく検査し、通常はしない身分証の提示も求めていた。

 事件当時、武力弾圧により市内で最も多くの学生らが亡くなったとされる地下鉄の木●(きへんに犀)地駅周辺では、事件を追悼する人々が集まることを警戒。公安が周囲の人々に目を光らせ、不用意に立ち止まらぬよう促していた。

 ニュースからうかがえるのは、中国政府が自分たちに立ち向かおうとする勢力に対して徹底的に力で抑え込もうという姿勢である。

 新疆ウイグルのテロ事件もそうだが、力で抑え込もうとすれば憎悪を増幅させる。天安門事件後の世代は、事件そのものが有ったのかさえ知らないらしい。それ程徹底的に情報操作し、歴史の中にあたかも存在しなかったようにさせる。

 しかし、人間の中にくすぶる恨みは消すことはできない。それは、どの国でも同じである。革命で政権を奪い取ったとしても、その革命で追われた人間たちは、自分たちが正当であると信じて疑わないうちは、何時かまた自分たちの国を作ろうと企てる。それは永遠である。

 しかし、この事態を見るにつけて、中国は恐るべき国家である。13億の人間を従えることは並大抵の努力では不可能である。それを一握りの人間たちがコントロールできるというのも、ある意味昨日も書いた宗教的な精神支配を国民に行っているという事である。

 戦時中の日本において、国民の多くが国家に対して忠誠を誓い、鬼畜米英と声を上げながら戦争に邁進していた中にも、その体制を疑い抵抗した人間が居たことを考えると、やはり中国でも洗脳教育を受けた中でも自分たちの境遇に疑問を持ち反体制的な行動をとろうと考えるが少なからず存在するだろう。

 それは、13億の国民の中では、ほんの少数かもしれないが、消し炭のようにどこかに火種が有ればすぐに真っ赤になる存在であるはずである。

 本当に中国が豊かになれば、それに応じた思想が芽生えそれを誰も止めることができない時代がやって来るだろう。それとは反対に、自由を謳歌していると思っている日本国民に対してそれを締め付けようとする勢力が現れる可能性があることは肝に銘じなければならないだろう。

 人の多くは、単独では大人しく好戦的ではないが、数が集まれば集団対集団の争いが生じる。それは必ずである。そして相手を制圧しなければならないという方向に進みがちである。それが人間が持つ本能のようなものでああり、それを避けることは決してできないことである。