天安門事件

 晴れ、気温は朝の6時で15度くらいだったが、太陽が昇り始めるとどんどん上昇し始めている。今日も真夏日だろう。


 今日は何の日かというと中国で天安門広場で事件が起きた日である。あれから25年もたつという。月日が流れるのは早い。

 おぼろげながらの記憶だが、天安門広場を埋めた学生の集団の中に装甲車がが突入した映像が流れていたのを覚えている。当時の中国政府にとってあの学生の行動が共産党一党支配を揺るがす反乱に思えたのだろう。

 その当時、中国では民主化運動というものが広がり始めており、共産党内にも民主化運動に対して賛否が有ったお思われる。民主化運動に好意的なグループは、あの後粛清されたことからも判る。その代表が、趙紫陽であった。

 その後、中国はそういった共産党一党支配を揺るがすような勢力に対して強硬姿勢であたるように方針を転換した事件と言って良い。

 近年、外国資本を受け入れ国内の経済発展が著しく、アジアに於いて強大な国家に成ろうとしている。その力は、広大な国土に住む13億の中国人の数によるものである。何をするにしても労働者が居れば何とかなるという環境が世界の製造業を呼び寄せ、その収入は、個人に入ると同様に国家の財源になる。他の先進国から見れば中国国民の大半が貧しいと思えても、それ以前の環境が今より貧しかったことから生活レベルが向上したと言えるのだろう。

 その貧しい人たちの労働力で稼いだお金は、一握りの国民に集まり、そして支配階層である中国共産党員が得をする国家を作り上げてきた。いうなればどこかの宗教と同じである。国を富ますためにお金を持つものはお布施を、無いものは労働を教主に捧げる。一番贅沢な暮らしをするのは、その教団の幹部連中だけという図式である。

 中国という国を理解するには、国王という絶対的君主の元に出来上がる王国というより、共産主義という宗教を信じる信者によって作られた教団という事である。ただし、その教団の中にも派閥があり主導権を握るために権力闘争が繰り返し行われているというのが今の中国である。

 実は、それに似たような国家は幾らでも存在している。民主主義国家を標榜する日本も一歩間違えばそちら側に振れかねない可能性を秘めている。何時でも、日本も中国化する可能性があるのである。

 我々が求めている民主主義は、法律という規則で縛られているからこそ成り立っている。犯罪を犯した者が罰を受けるのもその法律があるからこそである。

 しかし、そういった規則規制が行き過ぎれば何時でも全体主義に移行しかねない危険性をはらんでいる。確固たる民主主義国家と思っていても、国民の世論が、皆同じ考え行動を求めるようになれば、そういった体制は崩壊する。それを生み出すのも民主主義であるとも言える。