理想社会

 雨、気温は10度。桜並木の花びらが散り道路にピンクの絵の具をこぼしたようになっている。

 我々が住んでいる場所は、日本という国である。日本という国は、多くは日本人で構成されている。国家というのはそういった元となる基本構造がありその中で成り立っているはずである。

 しかし、日本という国に住みながら、国の存在を認めない人も中にはいる。国という枠組みに縛られないで、人間という大きなくくりで考えようという人である。その中にあるのは、人類は一つの共同体であるということなのだろう。

 日本には、言論の自由というものが認められており、家族であってもその中で意見の相違は必ずあり、意見が異なることを自由に発言しても問題はない。

 上にあげたように、人類という枠組みで考えれば、縄張りというものは存在せず自由に地球上のどこにでも行き来することは可能な世の中を実現する理想を忘れてはいけないが、その自由にどこにでも安全に行動できる保証をどこで得るかが問題になる。

 すべての人間が同じ理想で一致していれば問題は発生しないだろうが、言論の自由があるように思想信条についても自由が存在する。そうなると話がややこしくなる。

 ある一人の自由行動は、他人にとって侵害に当たる可能性が当然出てくるからである。

 例えば、自分の家があり、そこには他人に自由に出入りしてほしくない人が居り、家の玄関に「関係者以外立ち入り禁止」の札が貼ってあるとしよう。家人はそれで自分の家の中に自分以外の人の侵入を拒むという宣言をしたわけである。

 しかし、そこに何をしても自由だと考える人がいて、その張り紙を無視してその家に出入りしようとする人が現れた場合、そこにいる住人はどのような行動をとるだろう。


 このたとえ話は、極端な例であり、色々な複雑な理由が絡めば即座に判断を下すことはできない問題である。解決するには、お互いに自由の定義を相互理解する必要があるが、自由の定義がはっきりしないことが実に多いのは確かである。人間の寿命の中で自由という意味を相互理解するのは不可能と思われる。


 そこで、その自由を保障するものが国家というものになる。自由という相互理解が難しいものに対して、憲法なり法律で縛りを掛け、自由というものに制限をつける仕組みである。この国家という名のもとで定義される自由は、ある意味不平等な自由である。しかし、そういった制限を設けないと国という名の地域を安全に行動できない。


 地球上のどこにでも自由に行動できる仕組みを作るには、全世界の人間が共有できる定義が必要になる。しかし、その世界レベルで定義する機関が存在しない。その機関が無い状況で自由に行動できる権利を誰も保証してくれない。

 話を国内に戻すが、そういった国という制限を設けない、国家機関に自分の行動を制限されない自由を求めることは、その自由な発言が許される国という仕組みが無ければできないということである。

 なんでも自由にできる権利は、それと引き換えに自由を制限されることに他ならない。ここに矛盾が発生するわけである。今の日本にある、いろいろな思想信条で集まった集団が、その自分たちの権利を主張し、それを曲がりなりにも一つの意見として保障されるのは国という枠組み(それが許される体制)があって初めて実現するものである。

 地球のどこにいても自分の自由な発言、自由な思想を実現するには、まずそれを守る枠組みが必要で、その枠組みに従うように地球上のすべての人を従わせる何らかの権力が必要になる。理想的な社会というのは、多種多様な考えを持つ人類にとって実現不可能な命題である。