宗教なるもの

 晴れ、気温はマイナス1度.道路の水溜りに薄氷が張っていた.これだけ気温が下がれば水が凍るのは当たり前のことだが、少し驚きが沸き上がる.

 

mainichi.jp

 統一教会関連でこんなニュースが報道されている.どれだけ自民党議員が統一教会に影響されているか、またそれをネタに自分の選挙に利用しようとする輩が存在する.統一教会に関しては本当に色々なところで活動していることが判ったわけである.

 統一教会の教えを簡単に読むと自分達の都合の良い聖書解釈から発展して自分達教団の私腹を肥やすように出来上がっている.まともに理解すればその教えとやらは自分達を幸せにはできないと判るのだろうが、その基本がボランティア活動から始まるというところが良くできたところである.

 ボランティア活動は無償からの奉仕活動であり、自分のエゴを押さえることから始まる.その部分は、どの宗教でも同じような構造を持っている.私利私欲を捨て神に仕えてこそ自分の精神が浄化できると説く、そのために実践しなさいと.その実践活動で得た利益は自分達の神にお供えしなさいと.しかし、現実にいるのは神ではなく教祖と呼ばれる人物である.本来神は人間と交わらないものである.その神が教祖と同一なら教祖は人間を超えた存在であり人間にご利益を与える存在にはなりえない.しかし、信者はそれを教祖と髪を同一視しようとし神に仕える人間となろうとする.そこに信仰は生まれるのだが、何度も言うが神と人間は同一世界に存在できないものである.神は人の言葉を聞き入れる存在には決してならないし別な次元に存在するものであると思う.いうなれば精神世界の存在でしかない.

 何かを信仰するのは自由である.その対象が自然世界に有る物であっても構わないし精神世界に存在するものでも構わない.それを信仰するということは自分の心を浄化するものであり、何かをお願いしてご利益があると考えるのは自分の心をねぎらう物でしかない.それで心が穏やかに過ごせるのなら信仰もありだが、その信仰によって周りにいる人たちを傷つけるならそれは邪教とも言える.そういった宗教からは直ちに離れるべきなのだろう.

 信仰は時として間違った方向へ進む.自分達の宗教が排除されるような状況になれば危機感を覚えその宗教を守ろうとする方向へ走る.その時代によって時の為政者は宗教を利用したり敵としたりする.その時代の波に翻弄されながら信仰は続いてきたわけである.それを否定することはできないから信教の自由が認められているわけである.

 

 人は、ある意味真面目で愚かな存在である.自分一人の考えを貫き通すことは困難な人生を歩むことになる.その困難さを軽減するために家族や組織などの共同体に所属する.それは、何かに依存することで心の安らぎを得るためである.そこから抜け出すために孤独というものと戦う必要がある.或いは、その組織を自分の利益を得るために利用しようとすればそれに巻き込まれる人たちが現れそれが一つの組織となる.

 今回の統一教会に係らず、中国の共産党も同じである.運命共同体という存在が自分の生存を証明するために時には周りを取り込もうとするし、敵対する存在には牙を剥き威嚇する.