平等が故の不平等

今日の朝のTVで、障害を持つ子供の幼稚園入学の問題に付随して、小学校での障害を持つ子供と一緒に学ぶ子供たちの姿を映していた。

 小学校では、障害を持つ子供は、特殊学級或いは別な名前をつけて教育を行い、一般の子供分けて行われてきた。
 子供は、その教室に学ぶこともを特別な存在として感じていたはずである。

 戦後、国民は平等に生きる権利を持った。そして教育は受ける義務を持った。

 そこで行われた教育は、人はみな平等に教育を受ける事をしなければならないとの方針の下、国により学習指導要綱に沿って行われてきた。そして、各地の学校では、平等に同じ授業を受けてきたはずだったが、今回の必修科目を履修していなかった出来事のように、平等に受けていたはずなのに一部の学校はそれをせず、評価点を偽造していた。それにより推薦入試を出願した受験生に不平等をもたらした。更に受験に於もその不平等を持ち込もうとしている。
 
 一部の政治家は、今回そのルールを帳消しにしろといっているが本当にそれで良いのか、あなたたちが決めた或いは認めたルールを勝手に変えた事をしょうがないで認めて。それは、国自らルール破りを認めたことになるのじゃないのかと思う。

 話はまた障害者のことに戻るが、普通の子と障害を持つ事を分けることで、授業が普通に進められるよう、それは、授業を平等に受けさせるための方法であった。しかし、人を普通の子と障害を持つ子供を分ける事は決して平等ではない。
 障害を持つ子供を特別扱いすることで不平等をもたらした。
 
 そして子供たちは、自分たちと障害を持つ子供は別な世界にいる事を学んだ。言い換えれば、何らかの平等の前にはその特殊な子供は見えないようにしてしまった。
 それは、社会には普通の人しか存在せず、障害を持った人は隔離されるべきと教育されてきたのかもしれない。

 自分も今まで何時の間にか、障害を持つ人々から目をそらしていたかもしれない。その人たちの面倒は国が行うべきだと言う考えで、積極的に自分が関与しようなどとは考えていなかった。現実から目をそむけることで平等な社会が存在すると考えていた節がある。

 しかし、このことも画一的に物事を進めることが出来ないだろう。それが現実の教室わけである。いろいろな事情が複雑に絡み合いその妥協策として今のシステムが成立したと思うので、何かを変えるごとにまた何かの不平等を生む事は間違いない。