情報社会

昨日の仕事帰り、北の空が夕焼けのように赤かった。あちらの方角で何かが起きているのだろうかと考えながら帰宅した。

 しかし、TVにはそれに関する放送は無かった。それは、当然である。TVの報道は、誰かが必要としている情報を発信しているのだが、その誰かが必要としていなければ情報は流れない。

 今だからこそ、世界の情報はリアルタイムに流れている。しかし、それも誰かが欲している情報で、その誰かの範疇に入らなければ必要の無いものとなる。また、リアルタイムのニュースとなるとそれなりに情報取得に費用が発生する。情報収集にも金が必要なのだ。

 インターネットが今のように発達すると、自分の欲する情報は何時でも得られると錯覚してしまう。しかし、前述したように今、自分の身近なところで何が起きているかを知ることは不可能である。誰かが何が起きているか取材をし、情報を流してくれなければ知ることは出来ない。

 もしこの状況を変えるとしたら、如何に身近で起こった出来事を情報として流すかという方法論になる。もし、誰もが身近に起きたことをリアルタイムに発信できたたとして、その膨大なゴミのような情報を仕分けし検証する作業は誰が或いはどこが行うかということになる。もしそのようなことが可能になったなら当然情報の中に嘘やデマが紛れ込んでくるはずである。

 でも、今身近で何が起きているのか知りたいという状況は何時でもではないがたまにある。例えば、街中で人だかりがしていれば、そこで何が起こっている知りたいし、更にパトカーのサイレンが聞こえれば何が起こっているのかを知りたくなる。

 結論を言えば、情報を得るためにはお金がかかるということである。インターネットの情報も端末を用意しなければならないし、接続料も掛かる。無料だと思っていたかもしれないがそうではない、情報使用料として支払済みなのである。

 ただし、自分の身近で起こったことが全てリアルタイムでインターネット上に流れていくることが素晴らしいとは思わない。却って恐ろしいことではある。
 情報は、必要なものだけをこっそり利用するに限るのかもしれない。