人生色々

今日は、うす曇の空である。朝方は冷え込んだ。気温は10度以下になっていた。昨日の高温が嘘のようである。あの暖まった空気はどこに飛んでいったのだろうと思うほどである。
 しかし、今日の予報も内陸部は気温が20度を超える暖かい日になると伝えている。この陽気で、桜も開花し始めたようで、本州とは比べ遅いお花見シーズンの到来である。

 
 お花見とはまた違った意味で、チューリップや花壇の花の切り取りや荒しが続いて起こっている。これは、丹精こめて育て手入れした方にとっては、心が痛む事件である。 花を咲かせるために毎日水をやり、声を掛けながら育てると本当に情が移るものである。どうせ枯れると判っていても、その咲かすまでの過程が幸せであり、育てることに意味がある。
 ただの愉快犯の犯行と片付けるのは簡単だが、人の心を傷つけたという事実は残る。捕まったとしても説教で済まされてしまうのだろうが、その数人の行いが何人の人の心を傷つけたのだろうか?

 最近、人としての見苦しい行いが増えている。それが昔より増えているのかどうかデータを持たないためこれは想像に過ぎないのだが、戦後、個人の権利を大切にしたあまり、他者への無関心の度合いが増えたのでは無いだろうか?
 それは、見て見ぬ振りに始まり、起こった結果は自己責任ということにするあまり、他者の行為には見てみぬ振りをすることを貫き、もし事が起こったときは、行為者の責任というようにしてしまった。
 その起きた過程の段階ではなく、起きてしまった後の出来事を責めるだけになってしまった。

 他者とのかかわりを否定する余り、徐々に引きこもりと呼ばれる人が増えたのだと思う。もう少し地域社会が、人と人との係わりを持つようにならなければいけないのだろう。しかし、それが戦時中の隣組のように他者を監視する仕組み担っては困るのだが。

 人生は本当に色々である。自分以外の人の助けを得なければ生きていけないのは事実である。社会というものの恩恵を犯罪者や暴力団の一員であっても受けているわけである。その中で生きていくことは、好むと好まざるに係わらず、他者との係わりを上手に持つしかない。
 もし、社会の秩序を壊すような出来事があり、それを見たとしたらそれは注意をするか、その秩序を守らせるような仕組みを作る必要がある。
 
 もし、このままこのような事態が続けば、監視社会に一歩ずつ続くのは間違いない。それをさせないためにも一人一人がそれに気づく必要があるのだ。