裁判員制度

 曇り空。雲の切れ間から時折太陽の光が差す。太陽の光は強烈で、薄い雲が覆ったくらいでは、直視するのは1秒位が限界である。しばらく目がチカチカする。今日の外気温は、午前5時で14度と高めである。こうして気温を書いていくと徐々に夏を迎えつつあるのが良くわかる。

 今日はこの話題。

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 河北新報引用(http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/20090522t73026.htm

裁判員制度・手続き着々 呼び出し状、来月中旬にも到着

 刑事裁判で「国民の司法参加」を実現する裁判員制度が21日始まった。裁判員裁判の審理開始は2カ月以上先になるとみられるが、制度に基づくさまざまな手続きは着々と進められる。

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 自分の所には今年は来なかったので、特に差し迫ったものは無い。昨日から始まったという事で、選ばれた方には、お知らせが送られてくるようだ。

 今日のTVで、「自分は被告人に死刑などの裁きをすることが出来ない。」と述べている人が映し出されていた。確かにこの制度、法的な知識も無い一般人が、裁判に係わるという日本では始めての仕組みであるため、確かに初めて参加する人には十分な心理的圧力があるだろう。

 多くの人が、まだ制度が整っていないと反対するが、この制度は、はじめてみれば良い制度かもしれないと思う。

 裁判官は、神ではない。更に法の下に平等といいながら、色々な問題を抱えているのも事実である。その神のような仕組みを、合議という形で市民の手にゆだねる事は正しいのではないかと思う。

 昔、法律や裁判が無かった時代、村の掟などで集団で取り決めをし、合議制で村人を罰していた時代がある。その時の状況で同じ罪でも罰は異なっていたはずである。少なくともその時代に合わせた罪の軽重が存在すると思う。

 今の司法制度ではその軽重を一人の裁判官が決める事は、神業に近い行いだと思うわけである。確かに、裁判は3審制をとっており、間違った判断が降りないように工夫されているが、そこに多くの意思が加わった方が良い時もあるはずである。

 裁判員制度は、始め殺人や傷害事件の裁判から始まるようだが、将来、公共事業の差止請求などの公的な裁判に加われるようになればもっと国政に民意を反映させる事が出来るのではないだろうか。