共生社会

 朝日がまぶしい。雨上がりで路面は濡れている。その路面に落ち葉が張り付くように黄色や赤の彩を見せている。

 気温は暖かい。9月上旬の気温でコートはいらないくらいである。

 

 日本は、民主主義国家であるが、昔からの色々なしがらみからか、絶対的な民主主義ではなく、社会主義的な共同体という色合いが強く残っている国である。

 この共同体意識は、社会主義が良い面、悪い面を持つと同じように良い面、悪い面を持つ。

 この共同体という意識は、村社会に通じる。まだ地方に行けば村社会が存在し、その中で共に助け合い苦しい家があれば何らかの手助けを行うという風習がまだ残っている。それが講じて談合という事になるのだが、一つの助け合いといってよい。

 その隣り合う人たちが、互いに他の仲間を気遣いその中の暗黙のルールで仲間を縛る事でその地域を維持する事が村社会の掟でもある。そのルールを破ればやはり村八分になりその村から出なくてはならなくなる。

 そして現代社会では、ルールは国単位となり、村社会の談合などは排除されるようになってきたわけである。それが、公正な競争を促す民主主義のルールであるからである。村社会単位のここのルールで縛られてそのルールによりよそ者が排除される事を民主主義は嫌うからである。

 それは、人が行き来する欧米において立ち寄る村で排除されては生きていかれないために出来た必然的なルールともいえるだろう。村社会のよそ者の排除を国が規制したものが民主主義のある意味ひとつの柱であるわけである。

 そして、その民主主義が広まると同時に自由という事が同時に広まった。個人の自由が尊重されるという基本方針が民主主義の根底にあるからである。

 その自由を日本人は勘違いした感がある。何もするのも他の人が迷惑を被るのも自由のもとでは自分の自由である権利を主張できると勘違いしてしまったのである。

 その古くからの村社会の掟に縛られる部分とその掟に縛られない自由を主張する部分がせめぎあう世の中になったとも言える。その中でその村社会の持つ助け合いの精神が徐々に薄れているのが今の現状とも言える。

 その一つの言葉が「自己責任」である。失敗をすればその失敗をした人の責任で周りが責任を負う事はないと主張する。しかし、その反面その失敗した個人だけでなくその個人が所属するグループも「連帯責任」を持ち出してグループを非難するといった足の引っ張り合いを平気でする国になってしまったといえる。

 このように、アンバランスになってしまった社会を再構築する必要があるだろう。民主主義は、人が自由であることを自由を制限する事で守ろうということである。ルールを逸脱すれば自由を得る事は出来ない。更にこの思想は、国単位ではなく世界単位の思想ともいえる。それはここの村が分裂し色々なルールが存在する事を出来るだけ排除しようという事である。

 この思想は非常に正しい。これを運用する人が故意或いは誤って逸脱しなければ、人は自由に色々なところに行き来する事が出来る。

 そのルールを守りながら共同体という村社会の良い面を如何に適用していくかが住みやすい社会を作るための方法だと思う。

 それは共生自由主義と自分で勝手につけてしまうが、人と人が助け合いながら自由に生きていくことも認めるような社会である。

 しかし、やはりここで問題となるのは、やはりルールを外れたものをどのように処遇するかである。刑務所ののようなところに収容するのかルール破りの規模において罰金を取るというような仕組みになってしまうのだろう。

 これが過度に行き過ぎれば、少しでも決められたルールを守らなければ強制収容所で再教育、強制労働ということになるのだろう。

 理想的な社会を作るために忘れてはならない重要なポイントがここにある。それが過度に行き過ぎれば住み難い社会になってしまうし、それがゆるければいつまでも本当の共生社会を作る事は出来ないからである。

 しかし、歴史は、異なる思想を持つものまで排除しようとした事で争いが必ず起こってしまう、それが宗教であっても同じである。その排除の歴史が国を変えてしまうことになる。その判断のバランスをどのようにとるかが国の仕組みを変えてしまうことになってきたのである。

 

 残念ながらそれに対する真の回答は得られないのだろう。不十分でも自分たちが決めたルールで社会を運営するしかない。ルールに不備があれば修正しその時々で変えていくしかないのであろう。それも自由な社会を運営していくための危うい生命線であるからである。