子殺し

 晴れ、秋晴れと言って良い。空が高く見えるのも高層の雲があるせいだろう。風も乾いているためジメジメした感じは薄らいだ。


引用 毎日新聞http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100902ddm041040070000c.html) 

埼玉・春日部の小5殺害:容疑の母逮捕 「人間関係疲れた」

 埼玉県春日部市西宝珠花(ほうしゅばな)のアパートで小学5年の男児の遺体が見つかった事件で埼玉県警春日部署は1日、母親の同所、無職、山本祥子容疑者(29)を殺人容疑で逮捕した。捜査幹部によると、山本容疑者は「自分が殺した。人間関係に疲れた」などと供述しているといい、詳しい動機を調べている。

 無職で母子家庭でという状況しか情報が無いため判らないとしか言い様がないが、これもそれも人生なのだろうか?

 年金を不正受給までして生きようとしている家族が居る一方で、幼い子供を殺すことで人生を終わらせようとする。その一見真逆に見えるような行為もやはり人間のなせる技である。

 人間だから、自分の死や自分以外の死に対して別な感情を持つのだろう。自分が生きるために或いは自分の人生を終わりにするために自分以外の死に対する恐怖が無いということだろう。

 人が生きていく上で、色々な人間と係わりを持つのは当然である。その中で自分ひとりが生き抜いていかなければならない。もしこの子どもがそういった考えを持っていたならば殺される前に逃げ出していたかもしれない。

 或いは、自分の人生をこの母親に委ねて死んでしまったのかもしれない。それは、想像するしか無い。

 人は生まれながらにして平等だと言うが、現実はそうではない。トイレの便器の中に産み落とされ、溺れて人生を終えてしまう生もある。人間は、生まれ出る時に、母親を家族を選ぶことは出来ない。それが本当に平等の人生なのだろうか?

 生まれながらにして、なに不自由無い暮らしができる子供が居る一方で、毎日の食事を満足に取ることもできずにいる子供もいる。その境遇から抜け出すには、並大抵以上の努力を要するだろう。

 何不自由なく暮らし、親の地盤をついで政治家に成り、人の痛みもわからないうちから日本を語り国を動かそうとする人間もいる。その人達が国を動かして果たして本当の政治ができるのか疑問だが、それだけが政治家の資質にはならないのは百も承知である。

 絶対多数の幸せが確保できても、やはりそこから溢れる不幸な人達が必ずいる。絶対多数が幸せであれば幸せな国かというとそうでもない。やはり100%はありえないが限りなく幸せである国を目指すべきなのだろう。

 今の政治に望むものは、子ども手当というお金をばらまくだけでなく、こういった不幸な子供たちを生まない環境を作ることを目指すべきなのだろう。将来の日本を支え作っていくのは子供たちである。