親が子を殺し子が親を殺す

晴れ、気温はマイナス10度。


引用 北海道新聞http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/516632.html

中標津】21日午後4時50分ごろ、根室管内中標津町東26南2、無職増田一義さん(83)方で、「父親が祖父に手をかけたかもしれない」と増田さんの孫の男性(31)から110番通報があった。中標津署員が駆けつけたところ、寝室のベッドに増田さんが倒れており、搬送先の病院で死亡が確認された。同署は殺人容疑で、現場にいた長男の無職稔容疑者(57)を緊急逮捕した。同容疑者は「介護に疲れた」などと供述しているという。

 親は、育児疲れで子を殺し、大きくなった子供は介護疲れで親を殺す。

 親と子、本来なら血の繋がりが愛情を生むが、それは生まれながらの本能によるところが大きい。親と子の間の一定期間を過ぎれば、動物は、親から子離れしようとする。

 その中には、生まれたばかりの子供を放置したり、殺したりする親が一定の確率で存在する。それは、個体の差によるところが大きいだろう。

 そして、親が老いるまで子離れしていない場合、今度は子供が親を殺す。それも一定の確率で起きることである。人間だからというわけではないだろう。

 我々、人間はどういった未来を選ぶだろう。日本の目指すのは、生まれた子供は直ぐに取り上げ国の施設で育て上げ、老いれば、一人で生活できない老人を収容する施設を作るのだろうか。

 ある意味、合理的な工場のような社会である。そこにあるのは機械の部品の一部としての人間である。

 しかし、多くの人間はそういった束縛を嫌う。均一な扱いを受ける自己を失うような扱いに耐えることはできない動物である。そのため、必ずしもそういった合理的な社会というものを嫌い、不合理な事が起きることが前提の社会を好む。そこに、命を失うような犯罪や事故が起きようとも、それも不合理の一つとして受け止めるのである。

 しかし、その不合理性を悔やむ生き物である。そういった不合理が生じる社会であると認識しているはずなのに、親が子供を殺せば、児童相談所が対応していないからであると文句を言い。子供が親を殺せば役所は何をしているのだと怒る。

 そういった事態を起こさないためには、管理された社会を作るしか手立てが無い筈なのにそれを拒否する。矛盾である。

 親と子供の関係は、親が死ななければ消えることは無い。子供が新たに子供を作ればそこからまた異なる親子関係が生まれてくる。そういった喪失と再生の繰り返しで人間社会は作られる。その一本の糸が複数の糸と絡み合いながら社会は動き、どこかで切れた糸が漂うのである。

 昨日、日テレの「明日、ママがいない」というドラマが有った。1回目の放送で物議を醸し、その次という事でどういう展開に成るか注目していた。

 そこで見せつけられたのは、子供の演技を見せるための舞台設定で孤児院を持ってきただけで何の思想も無く、見ている人の涙を頂戴させるためのストーリーであった。

 親と子の絆が、血なのかそれとも愛なのかを問うような作りでは無く、親子関係など絵空事であることを陳腐な舞台設定で見せるドラマであり、日テレが主張するような親と子の関係を深くえぐり出すようなドラマでもない。子役を如何に見せるかを目的として作られたもので、わざわざ物議を醸すような設定でも成り立つドラマである。

 熊本の病院の方が抗議していたが、抗議するのも無駄である。ある意味喜劇を、社会性のあるドラマと思ってしまったのが間違いであるし、そう思わせたのもテレビ局の安易な放送開始前の宣伝によるところが大きい。抗議しただけ無駄である。だからと言ってあんなドラマに、そういった舞台設定を認めたテレビ局の姿勢は非難されるべきだろう。