何故報告をしなかったのか

 晴れ、気温も10度は超え、ある意味春らしい陽気である。

引用 テレビ朝日(http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210527003.html) 

原発】中断から一転、「海水注入」継続していた(05/27 05:53)
 福島第一原発で大震災直後、1号機への海水の注入を中断したと公表していた政府と東京電力が26日、一転して「実際には海水注入を続けていた」と発表し、謝罪しました。

 これは、重大事故に際して所長の判断で事故処理に当ったということだが、その妥当性と、報告しなかったということは別次元の話であり、両者を同一の事象として扱いそれを許していたら、今後も同様の事が起こるだろう。

 最初の現場の判断は、東電本社で事務仕事を中心に行ったていた人間に判断できる事象ではないという理由が有ったのだろう。原子力発電所の隅々まで知りうる立場の人間の判断の方が間違いは少ない。

 しかし、ここで問題にしなければならないのは、独断で行った行為を報告しなかったことだろう。それを許す体質が、大きな事故を生む。更に重大な事実を容易に隠す体質は、その陰に隠れた数多くの、重大事故につながりかねない小さな事故が当然のごとく隠されるからである。

 医療業界でも近年リスクマネジメントの考えが漸く浸透してきた。小さなミスと言われるものが、隠され内密に処理することで、大きな事故もその小さなミス同様に隠ぺいされる体質が過去の医療業界では存在した。そして今でもその染みついた風土は、時たま事故隠しというニュースになって現れる。
 
 もし、小さなミスの段階で報告され業務が改善されていたら、起こらないであろう重大事故が今でも散見されるのは、まさしく人間が弱い動物だからである。

 原子力産業は、「原子力村」という名前で呼ばれる一種の運命共同体である。その中の絶対唯一の掟は「絶対安全」である。それは、誰もが侵すことのできない精神的な柱でもあっただろう。

 その「絶対安全」の名の元、事故が表ざたになることを許さない。そして事故隠しが行われ、それがあたかも「安全神話」の前では、許される行為として原子力村の住人の意識の奥底に隠されて生き続けてきたのだと思う。
 更に、その事故が起きるたび、その監督者たる国は、それでも安全であるという言葉を翻すことなく、特別な事象として扱うことを止めなかった。
 
 それが長年続けば、その公表すべき事実を隠すことが正当であるという考えに堕すのは想像に難くない。そして現場の独断が許され、報告に済ますことができれば永久に秘匿されることになった。

 まさしく、原子力村の体質は根本的に腐ってしまっているのだろう。これを改善するのは並大抵の努力では済まない。ある意味現場の人間を総とっかえするか、再教育を根気よく続ける必要がある。

 今回の吉田所長の判断は、結果的に正しかった。しかし、それを行った事実をすぐその場で公表すべきだっただろう。残念ながら英雄的行為は、時として暴走を生む。それを防ぐには、やはり情報を速やかに公開する体質を作り上げなければ永遠に叶うことは無い。