雲の多い晴れ、この先の天候は読めなくなってきた。気圧配置は西高東低の冬型になっているので週末は雪が強まりそうである。
ある集団が発生した場合、その中の大多数は、価値観を共有していることが多いだろう。
例えば、コンサドーレ札幌を応援している人たちが、試合のたびに集まり、更に試合後も、それ以外も集まる集団になれば、おのずと同じ価値観を持った人が集まるというような具合である。
その集団が大きくなり、戦国時代であれば、そののち豪族のようなものができ、やがて国になる。
しかし、その国も戦いの末、近隣諸国を併合していくたびに、その国の中に価値観の違う人たちが存在するようになる。
やがて、天下統一後、一つの国になった後、その国の方針を決めるのは、絶対的君主という事になるのが普通だった。
その君主が有能であれば、それ程国民は困ることが無いのだが、それでも色々な場面で価値観の異なることが起き、やがてそれが、また別な勢力を生み、争いが起き、国家の形態が変わるという繰り返しが人間の歴史だった。
今の日本の国家は、民主主義という名の価値観の元に作られている。その中には、当然民主主義を否定する人たちも混ざっているが、大多数の人間は民主主義を肯定している。
そして、価値観の違いにより政策決定が遅れることを防ぐために多数決という方法がとられ、政策決定がされることになっているのだが、必ずしも政策決定が国民の多数の意見を反映していないことが問題を引き起こすことになる。
なぜそうなるかと言えば、国民が多数決的な選挙で選んだ国会議員が政策を決定する権利を持つからである。
普通なら選ばれた国会議員は、国民の意思を尊重すべきものなのだが、選挙で自分に投票した人全ての価値観を受け入れることを約束してはいないからである。
例えば、その選挙で使われた公約を、そもそも実現できる保証はない、その公約を信じて投票した人の意思を反故にすることも国会議員は可能である。
なぜ、反故にするかと言えば、政策を決定するのは、政党だからである。
このようにして、民主主義の利点である代議員制は、必ずしも国民の意思を反映しないという欠点を持っているのである。
初めに述べたように、最初の集団は、生きるためあるいは喜びのために同じ価値観をもって成立する。しかし人数が増えればその中で、離散集合を繰り返すようになる。
集団は、必ずそういった性質をもつようになるのである。それが運命と言えば簡単だが、今の世の中を変えていくためには、どこかで国民の大多数の意見を表明する場が無ければ、問題は解決していかない。
集団的ヒステリーで、戦争に進むと言った悪弊も考えられるが、国の最後の意思決定に国会議員を使うのではなく、国民全てがこの先の方針を決めれるような国民投票の機会が求められているのではないだろうか?
それは、必ずしも最終決定でなくても良い。国民の意思の反映が選挙しかないとしたら、その結果が出るまで多大な時間を要する現在の方法は正しいとは言えないだろう。
今回の原子力発電の廃止か継続かを決めるのに、本当に国会議員に任せて良いのであろうか?まさしく国民の意思をどこかで明らかにする必要があるだろう。
それが民主主義の欠点を解消できる方法だと思うが如何だろう。