日本

 今は、小雨が降っている。気温も20度くらいだろうか、少しひんやりしている。

 バブル崩壊後、日本が「世界の工場」の座を離れ、徐々に物づくりから撤退し始め、今、世界の中のメイドインジャパンの存在が薄れ始めている。

 やはり、バブル崩壊時に国の政策が後手に回ったことが、今の現状を作り出していることは明らかである。その時代を生きていたものにとって、やはりその状況は、振り返ることでしかわからないことが多かったと思う。

 そして、あの繁栄の時期に日本人は、自分たちが栄光の座に上り詰めたことに慢心してしまったのだと思う。あの時期の日本人は、国家への帰属意識は希薄だったように思う。

 テレビなどに出てくる評論家は、こぞって日本をけなし、何処の国の人間であるか判らないような言動をしていた。その中で声高にナショナリズムを語るものは、忌避されていたように思う。そして、国家の概念は徐々に崩壊していったのが丁度あの時期だったと思う。

 それでも日本は日本で有りえたのは幸運だったに違いない。この東の果てに有る島国という環境と、周辺国家が武力的にまだ弱く、他国に攻め入ろうとするような国が無かったからである。もし、日本が中東のような地域に有れば、間違いなく占領されていただろう。それ程、日本人の中に国家意識は希薄だった。

 しかし、時代は変わり、アメリカの環太平洋地域の優位度が国力と共に低下し始め、アジアの国々がそれなりに経済発展を遂げ、国力が増すとともに、国と国との摩擦も強くなってきている。そのような状態で、日本に東日本大震災が起き、一層国力の低下をきたしたのである。

 その災害の復興に際しても、政治家の無能を棚に上げ権力争いする姿は、まさしく餓鬼であった。それは、今の日本の真の姿を鏡に映しだしている様でもあるから始末に悪い。

 しかし、徐々にその太平楽とした考え方に変化を来してきている。その一つが、今回の竹島尖閣諸島の問題だろう。今までだったら何とか無かったことにしようと汲々していたはずであるが、曲がりなりにも自国の利益の主張をし始めたことに驚きである。

 あのA新聞でさえ一時はナショナリズムにぶれようとしたことに驚いた。まあそれも今は、平常運転に戻りつつあるのが可笑しいのだが。今まで戦争反対、話し合いで解決という事を旗頭にしていたのだから、急にこういう展開になって平常心を失ったのだろう。

 普段きれいごとを言ってもマスコミは、時代の風向きに流される。そして、自分たちの都合の良いように話をすり替え、あたかも最初から正しいことを言っていたかのように振る舞うのが流儀だから仕方が無い。

 今は、ジャパンアズナンバーワンという言葉が過去の言葉になってしまったように、これからの日本の独立心を回復させるのに手っ取り早い方法は、ナショナリズムを国民のどう持たせるかである。オリンピックの団体競技や、サッカーなどの日本人チームの活躍を取り上げることで国民に国家への帰属意識を持たせることである。そういった事に国民は飢えているのが判る。

 だから、そのナショナリズムの高まりを敏感に感じず、韓国系の歌手、ドラマを取り上げていたテレビ局の視聴率が落ちるのは当然であった。

 しかし、そのナショナリズムの高揚はもろ刃の剣である。準備を重ねないでただ闇雲に突っ走ることが有ってはならないだろう。もし今の状況でアジアの緊張が高まるのだとしたら、それなりの用意をしてからでないといけないだろう。

 資源国家で無い日本は、太平洋戦争の時と同じようにしていては、同じ二の舞を繰り返すばかりである。それを繰り返さないためにはやはり国家としての戦略が必要で、右手で握手しながら背中に左手のこぶしを隠す交渉が必要である。

 その後ろ盾であったアメリカの国力が低下している今、日本の取るべき手は狭められつつあるのは間違いない所である。やはり日本に、優秀な政治家が必要な時代が来ているという事である。