新聞

 晴れ、気温も17度。6月は雨ばかりだったが、このところ晴れ間が続いている。


 今回の安倍政権が推し進めた、集団的自衛権の解釈問題で相当新聞社は苦労したようである。特に朝日新聞は、非戦、平和主義の基、安倍政権非難を繰り広げ、公明党に秋波を送り、何とか反対させようとしたがそれも上手く行かず、結局閣議を通ってしまった。

 特に気持ち悪かったのが、公明党への露骨な報道だったと思う。それは、一新聞社が行う政治活動のラインを越えていると感じた。

 その根底にあるのは、新聞社が公器であるという縦前を遵守するなら、少なくとも両者の意見を取り上げバランスよく報道すべきなのだが、この数か月、バランスを無視し、新聞社が世論を操作しようとする姿勢が余りにも露骨だった。

 主義主張を通すことは、どの新聞社でも行う事であり、その報道姿勢が定められているのは結構だが、それが現実世界で日本を正しい方向へ向かわすことができるかどうか責任を一新聞社が執れるかという事になる。

 朝日新聞の考える平和主義が日本国民を必ず幸福にするわけでは無いことを知っているはずなのに見て見ぬふりをしているようにしか思えない。

 歴史が示すように、理想と現実は違う。理想を叶えるために多くの犠牲者を生むこともある。それが例えば聖戦というものなら、死んだあと、あの世で幸せになると納得させるものが犠牲者にあるのなら構わないが、日本国民全体が、全て同じ理想を持って生活はしていない。

 ここいらの近所でも、考えることは必ず違うものである。大多数の幸福が、一部の不幸を生むとしたら、それが必然だとしたら。

 新聞社は、必ず少数派の意見を取り上げる。世の中の歯車が正しい方向へ向かおうとして行くときに、その犠牲になっている人たちに話を聞き、その意見を新聞記事として取り上げる。あくまでマイノリティに立った視点を忘れないようにという理想を掲げながら新聞は作られていると思う。

 それは、切り捨てられる人間の心の痛みを、その犠牲の上で幸せな生活を送る一般人に伝えようとする。それは、誠に美しい伝統のようなものである。

 ただそうなると、国が豊かで多くの人が満足な生活を送る時代は良いのだが、その割合が半々に成った時、どちらに光をあてた記事を書くことに成るのだろう。きっと今までの方針なら弱者に寄った記事を書くのだろう。

 その記事で、国が何か施しを与えてくれるように祈りながらである。しかし、その記事は、本当に弱者を救う事に成るかというとそうではない。その弱者は様々な理由からであり、更に今考えているのは、徐々に豊かさから国民の半分がそうではない状態に陥った時と考えている前提とするなら、その記事で救われるのは本当に少数だろう。

 そして、その記事を書く人間が、貧しい暮らしているかというとそうではない所に問題はある。

 日本が今まで平和であったのは、平和国憲法が有ったからではないと思う。今もそうであるが、米軍基地が有り、日米安保が有り、自衛隊の存在を抜きでは、この安全な暮らしは考えられないだろう。

 きっと左寄りの人たちは、自分たちが反対してきたものが存在し、それを否定しながらもこの世界の秩序が守られていることを薄々感じながら行動しているのだろうと思う。

 ここでお断りしておくが、自分は戦争したいと思っているわけでは無い。ただし、やはり他国の軍隊が攻めて来たなら戦う覚悟はある。そのレベルである。

 しかし、平和憲法だけが他国の侵略を食い止めることができると盲信している人たちは、実際そういった状況に陥ったなら、自分たちの家族を守らずに侵略されることを良しとする人たちばかりなのだろうか?

 先月の、朝日新聞の記事は、無理やりその人たちにスポットをあてようとし過ぎていた感がある。それをすればするほど、多くの現実的な考えを持った人を反対に遠ざける効果しか果たしていなかった。

 求められのは、その政策を冷静に理解して分析し、負の部分と正の部分を提示し、読者に選択を求める姿勢だったと思う。それがバランスというものだろう。きっと集団的自衛権の解釈にしても、戦後すぐには正しかった解釈だったとしても、時が経つにつれ周囲の環境が変わって行けばそれに合わせ、解釈も変化せざる負えない。

 平和憲法と言えども世界情勢に合わせた平和の追及ということを大事にし、憲法が一字一句できた時と必ず同じく変化をしてはならないという事は決してないのである。

 要は、日本を取り巻く環境は一日一日変化している。その変化に合わせて物事は変わらず負えない。その変化を見て見ぬふりして、戦争に反対する俺はカッコいいだろうというような論調で記事を作って行くべきではないと思う。