戦場記者

 晴れ、マイナス9度。

 今日の朝日新聞イスラム国の記事は、当たり前すぎて却って陳腐だった。憎しみの連鎖を断ち、愛を相手に与える活動という当たり前のことを書く。どこかにテンプレートがありそこから引き出してきたようだった。

 したり顔でこういう記事を書き、印刷して家庭に配ることの意味を考えていない。一昔前は情報手段として新聞の価値は高かったかもしれない。

 しかし、今では読者に与える信頼度は一昔前と比べたら半分以下だろう。当たり前のことを当たり前のように書くことの空しさを記者は知らない。どこか紙面を埋めるために思いついた記事で埋めてしまったらそこで新聞の使命は終わったと考えるべきだろう。

 社会面では、戦場へ行くフリージャーナリストを擁護する記事が一面を占めていた。これも、読者に対する予防線だろう。危険な所へ行く理由を書くことで犠牲となった人を正当化する。幾らフリーだからと言っても行動範囲は限られるだろう。安全という枠を超えた時、そこにあるのは金と名誉というありきたりの境界と紙一重の所にいる。

 それもこれも情報を買うマスコミが存在して初めてその職業が成り立つ。もし、新聞社の記者が会社の看板を背負って戦場へ行くのとは異なる。

 自分の会社の社員が犠牲に成るのとフリージャーナリストが犠牲に成るのとでは当然違う。自社の記者が犠牲に成れば会社にとっての損害は莫大である。そもそもそういった土地へ記者が命を掛けて乗り込むとは考えられない。

 

 その代りのフリージャーナリストという存在でしかない。記事を買って紙面を埋めることだけが新聞社の使命で、安全な場所にいて情報を得る事が新聞社の記者の特権である。

 今日の記事は、今後とも自分たちはあぶない所へ行かないから、フリージャーナリストの皆さんは、現地の取材をしてくださいと、もし良い取材が出来たらその記事を買うからよろしくねと宣言しているのと同じである。

 そして、それに勇気づけられまたイスラム国の現状を取材にフリージャーナリストの皆さんは行動するのだろう。これも、最近社会面で記事にしている格差社会の一つの表れではないだろうか。