百代の過客

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

松尾 芭蕉の「奥の細道」の序文の中の言葉である。

この句を読んで皆さんはどう思うであろうか。月日を文字通り自分を含めたこの世の時間、又は、中心を自分としてその上を通り過ぎる時間と考えるか、また別の捉え方をするかも知れない。

別に偉そうな事を書くわけではない。

この句の百代の過客は、唐の李白の詩「古文真宝後集」の中の一節に

「夫天地者万物之逆旅也、光陰者百代之過客也、而浮生若夢」

とある。

李白は、浮世は儚き夢と結んだ。

時を旅する大きな流れと比べれば自分が経験する一時の時間は夢のようなもの。


人それぞれに時間があり、それが合わさり歴史になる。更にいえばそれをも儚き夢と思わせる大きな時の流れが、宇宙が誕生してから今現在まで流れてきたのである。

それと比べれば、身近に起こる出来事は、例え嫌なことであっても月日が旅する時間に比べれば取るに足らない事。そう考えれば人生気楽に生きられるかもしれない。