晴れ、日差しが強いが、空気は乾燥しているためそれ程暑さを感じない。日中の気温は上がりそうだが蒸し暑さがなければ何とか過ごせるだろう。

 8月6日、9日と広島、長崎で原爆の日を迎えた。当時の8月もきっと今年の暑さと同様だったのだろう。その中、亡くなった多くの犠牲者に黙祷を捧げたい。

 そして、戦争が終り月日が流れ、この日本で発せられた核廃絶宣言は、何の実りも生まなかったと言って良いだろう。

 世界の国々が、その言葉に耳を貸さず、その反対に核を持つために闇ルートを使ってでも核兵器保有に奔走する国が存在した。

 

 更に、核兵器を所有する大国と呼ばれる国は、自分たちが保有することで発言権を得、何もしないことが大国の役割であるとの暗黙の了解の元、余るほどの核爆弾を所有してしまった。

 そして、日本でも現実的解釈のもと、核の抑止力のためにアメリカの核兵器の傘に入ると宣言をするようにまでなった。

 昔、日本の総理大臣が唱えた「非核三原則」は、今では、言葉遊びだった事が明らかになるなど理想と現実という大人社会のからくりを垣間見せもした。


 「非核三原則」は子供の頃の自分には、理想の言葉だった。広島、長崎に原爆を落とされた世界で唯一の被爆国であり、その経験を元に世界から核を無くす努力をする。更にそのために日本は、この先未来永劫、核を持たないと世界に向けて宣言したことは、子供にとって日本人の誇りだと感じたものだった。

 

 しかし、その現実は、口先だけで本当は見て見ない振りをしていたのである。後でバレるくらいならそんなことを言わなきゃいいのにと今でも思う。後世になれば言った本人が嘘つき呼ばわりされるのを知っていたのだろうか?その時が幸せなら後世の風評など関係ないのかもしれない。

 もう既に時は逸してしまった。核兵器を大国のみならず、色々な国が保有するように成った今、今後も色々な国が核兵器を密かに持つように成るだろう。口先だけの核拡散防止条約では、ザルで水漏れを防ぐようなものである。何の実行力もなければ、国連で決議することも出来ない体たらくぶりを見せられた今、世界から核を無くすと日本で叫んでも誰も聞いてもらえないだろう。

 世界で今生きる人は、善人ばかりではない。核兵器を使ってでも自分たちが生き延びることを選択する人間が大勢いる。

 その人間の前で、お経のように核廃絶を唱えても馬の耳に念仏とはこの事である。子供の頃の夢が大人になった途端、その理想と現実の乖離の前に自分たちの無力さを知るのである。

 理想は大切である。しかしその理想の前に現実の世界が広がっている。現実を変えないことには理想は達成できない。そのジレンマでお題目を唱えることの無力さを感じさせずには居られない。

 もし今の時点で核兵器を無くすには、SF漫画ではないけれど、核分裂を無力化するような技術が必要である。夢のようなお話であるが、それができることを祈るしか無いだろう。