ノーベル賞に思う

 曇り、そのためか少し暖かい気がする。

 

引用 読売新聞(http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20101007-OYT1T01127.htm

化学賞・鈴木さん、若い世代にエール送る

ノーベル化学賞受賞が決まった北海道大名誉教授の鈴木章さん(80)が7日、同大(札幌市北区)で読売新聞のインタビューに応じ、「苦難を克服して新しい価値を見つけるという気持ちを持ってほしい」と若い世代にエールを送った。

 鈴木さんは、受賞決定後の多忙さに「さすがに少し疲れました。まだ受賞の実感がわかないが、年を取って感度が鈍くなっているのかな」と話し、「80年の人生で最もハードな日」と前日を振り返った。

 日本の化学の研究水準については「天然物の合成などで力を発揮してきた。我々が取り組んできた合成方法も含め、日本の有機化学のレベルは、昔は太刀打ちできなかったドイツやイギリスなど欧州と肩を並べるところまで来た」と論評した。

 既にご承知の話題に一言。

 この話題、北海道出身者ということで非常に喜ばしいことである。しかし、ひとつ今後、何十年後も続々と日本人の科学者がノーベル賞を貰うことができるかというと甚だ疑問である。

 その一つの原因が、やはり教育環境にあるだろう。今の日本に本当に優秀な人間を掬い上げるシステムが機能しているとはとても思えないからである。

 戦後の義務教育を経験した身から思うに、その教育は、テスト至上主義で選抜を繰り返し、その中の更に頭の回転が良く記憶力に優れているものだけを集めて教育しようとした。

 しかし、本当にノーベル賞をとれるような人間は、周りから見れば異端である。その異端者を選りすぐって育て上げるのは、機械的な流れ作業の中で生まれることはない。

 一種雑多な人間の集団の中で、生きる個性と生きない個性がある。集団に迎合しようとすると異質な才能は排除されることになる。

 日本人のノーベル賞受賞者の中には、日本という社会では、成長できないと見限って日本を飛び出した人が多くいる。その人たちが何故日本で研究できなかったかを知る必要がある。たとえば、日本へ来た留学生の中でノーベル賞を取った人が今までいたかということにもつながるはずである。

 この先、画一的に教育され、社会に適合する様に育てられた人間がはたしてその能力を開花することができるかと思うと非常に厳しいだろう。きっと多くの人がノーベル賞に値する能力を発揮せずに埋もれていくのだろう。

 鈴木先生の会見で、今の若者の科学(化学)離れの話をされていた。確かに大学の学科から化学と名のつくものが情報という名前に変わっていた。昔なら工業化学が花形の学科だったのが、今では見る影もない。

 

 学生が進路を選ぶのは、自由である。その時代の流れがある。将来性を考えてというのもある。その中で科学を選択することが危険な賭けになっている感は否めない。もし成功しなければ自分の人生が惨めになるような賭けをできるのは、よほどの財産家か何かでしかできないことでもある。

 

 学問は壮大な娯楽だとしたら。その分野に経済的な考えを持ち込むことは、学問を絶滅させるルールでしかない。その無駄と思われる部分にお金や力を注げる国家でなければこの先ノーベル賞を貰う学者は生まれないだろう。