世界はそれでも回る

 晴れ、青空が9割方広がっている。東の山際にある雲が時折朝日を遮るが、秋晴れである。しかし、気温はその景色とは裏腹に寒い。もしかすると10度以下になっているのではないだろうか。


 チリの鉱山の人たちは、今日の午前中には全員無事に救出されるそうだ、普通ドラマなら危機の連続で見ている人を飽きさせないのだが、それは無いようだ。それが現実で、映画やドラマが作り物の世界だということである。

 そして、世界はそのニュースの流れる中で、それとは無関係に色々な事が変化を遂げているはず。日本にいながら世界のニュースた出来事を知っている気になっているが、TVや新聞で報じられない事も沢山ある。

 インターネットから情報を仕入れようにも言葉が分からなかったり、その情報がそもそも発信されなければ知りようがない。それでもインターネットは、新聞やテレビ、ラジオしかなかった時期と比べればそれは問題にならないくらい情報を与えてくれるようになってきたのだ。

 その中でやはり気になるのは、お隣中国の話題である。

 ここ数年の急激な中国の成長は、徐々に中国人社会を変えてきている。社会主義国家を名乗りながらその本来の姿は、一党独裁国家だったのだが、それも今回のノーベル賞受賞をきっかけにその体制の変化を国民が求めている姿が諸外国に伝わるようになった。

 数年前の中国ならその情報は、かすかに伝わる程度であり、このような事態が生じれば情報統制により一切の情報を遮断していた。更に今回ノーベル賞を貰った劉暁波氏なども以前なら政治犯として処刑されこの世にいなかったはずである。その人物が今も生き弁護士や妻が接見できるような状況になると誰が信じただろう。きっと数年もすれば、中国は大きく変わるだろう。それが良い方に変わるのか悪い方に変わるのか誰も予想できないのは間違いない。

 更に言えるのは、日本の存在である。昔、「Japan as No.1」と呼ばれたことは当の昔の事実となり、世界から忘れ去られようとしている。そのことについては、これでようやく日本も地に着いた国家なる時期に来たという事だと思う。

 今までそれこそ馬車馬のように働き、世界にその商品を売りさばいてきた。そして世界の工場として形振り構わず物を作り続ける姿は傍から見れば異質な国家に見えたことだろう。

 しかし、これからはその役割を終え、別な国家としての姿に生まれ変わることが可能になったのである。それは、ヤドカリでいえば今まで背負った貝殻を捨て別の貝殻に住み替える時期が来たということである。それが正しい正しくないは別としてそういう時期に差し掛かったともいえる。

 そしてその変化の兆しでこれまで日本が築いてきた秩序とか権威とかが徐々に崩壊し、新しい秩序を生みだそうとしているのである。

 その象徴が、国家権力の崩壊である。権威のあるものはその表から見えないところにあった裏側を見せ始めたと言って良いだろう。権力は、自分のその姿を見せたくなくて隠そうとするがその隠そうとする姿が、その醜さを余計露わにする。

 

 日本にとっての変化の変わり目をいかに上手に変身させていくかが為政者の役目であるが、それを逆手にとり利益を得ようとする不届きものが跳梁跋扈するから話はややこしくなる。

 今は、正義面していても本当は過去の遺物の代弁者という存在が数多くいるはずである。その人間を如何に見分けるか国民の目が大事なのだけれど。それ程に眼力が優れている国民ばかりであればこのような国には成っていないはずである。

 

 結果は0年、100年後でなければわからない所が残念なことである。今生きている人たちの半分がこの先の日本を知ることができないのだから、今生きている人たちを責めることはできないのだろう。