いじめ問題

 晴れ、少し雲は多いが日中は快晴の様である。

 いじめ問題に揺れる、大津市の市立中学校の学校目標が、ちらっとTVに映され、3つ上げられていた。

1.いじめの無い学校

2.あいさつある学校


 目標に挙げられているという事は、このことが学校に存在しているという事の現れである。

 しかし、実際そういった事は、子供社会の問題では無く、大人社会の問題でもある。じっさいのところ大人社会でもいじめはあるし、挨拶をしない大人も多い。

 大人は、子供が成長した姿である。しかし、体が成長したからと言って考えも成長するかというとそうでもない。

 外見は普通で、身なりも立派な大人が、ある面では子供なような考えや行動をとることはたまに目にする。

 例えば、立派な大人の見本であるべき国会議員などは、どこに子供の手本となるのと思えるような非常識な行動が、国会の場で見られそれが全国中継される時代である。

 皆が考える立派な大人と言える人は限り少ないだろう。その限り少ない大人が、この世の中に呆れ、本来国の指導者となるべき人が市井に在し、指導者となるべきではない人が、国の指導者になるのだから、子供を教育すること自体ナンセンスである。

 だから教師も事なかれ主義者が多くなり、授業をこなしていれば良いと考える人が増えるのも現実である。もし、真摯に取り組もうと考える教師は、大変な生活を強いられることは確実である。

 今回問題となっているように、本来ならかばうべきではない教師をかばう、校長がおり、教育委員会があるからである。

 その現実に向き合えば、本来なら良い教師のはずが、学校では孤立し、本来なら屑として排除されるべき教師がのこるということになってしまう。

 一時期、少人数性教育が言われていたが、教師の数を増やしても、何の目的も果たせない教育システムが温存されていては、機能を果たさないばかりか、その数が増えたことで大量に不良品の教師が生まれるということになってしまう。

 今回の問題、本来ならこれをきっかけに色々なシステムや、人間が入れ変わらなければならないのだが、その動きは鈍い。日本社会の問題点は、そういった流動性に欠けるという事である。