人は同じ月日に生まれたとしても、早熟な人も居れば未熟な人がいる。又それも心の場合であったり体の場合であったりする。
社会の中もそうであるが、一番集団生活を行う上でその差を感じるのが学校かもしれない。そこで、大きな他人との差が悩みを産み、心を蝕むのかもしれない。
それが教育の役割だと、親は言うが、親自体もその場をくぐり抜けた結果精神の発達にアンバランスをきたしている場合があるのだから手に負えない。
そうなのである。世の中の人間の精神的アンバランスさが目立つことが多くなったのは何故だろう。或いはそれが目立つようになったのは、情報化社会の発達がそれを助長したからなのだろうか。
良く、子供の言い訳に、友達のだれそれさんがしている。皆が持っているという言葉がある。
それを聞いたとき、その友達の名前をすべて挙げてみろと突っ込むことにしている。するとクラスの全員がではなく、半分であったり、更に突っ込むとそれよりも人数が減ってしまうことが有る。
しかし、この言い訳は、子供だけがしていることだろうか?実は大人たちも同じように自分の意見を正当化するのに利用しているのだ。
年齢を重ねたからといって、必ずしも心は成長していない。何処かその成長から逃げ出した部分があるのだろう。
外見は大人でも、考えは子供のままの大人が異常に多いことに社会に出たときに気付かされるのである。見た目が立派でも努々信じるなかれ。
そして先程言った、情報化社会が大人の行動をさせるのを妨げているのだ。それが、TVで誰かがやっていたなどという屁理屈である。TVの中のお笑い芸人がやっていた行動を真似するのである。そこにはTVと現実の境界が無い大人が存在する。
そんなことは、大昔からあったという人がいるだろうが、昔は、人間の寿命も短く、いい大人が年齢の分別も無く醜態を晒す場面が少なかっただけである。
これだけ大人と呼ばれる人口が増え子供と呼ばれる人口が減ってきた現代社会においてその非常識な大人の行動があからさまに増えてきたというのは最近ではなかろうか。
また、この大人になりきれない大人が増えたのも、やはりより年上の世代が長生きしていることも原因の一つだろう。まだ甘えられる存在が身近にいることが、いつでも子供に帰ってしまう原因かもしれないのだ。
今後益々、高齢化が進み、平均寿命が延びるとすれば、さて本当に大人と呼べる世代は何歳くらいになるのだろうか?もしかしたら本当に大人と呼べる世代がなくなってしまうかもしれない。
子供として生まれ子供として死んでしまう奇妙な世の中になるのだろうか。