曇り、気温はマイナス10度以下、外にいると帽子を被っていない頭の皮膚に寒さが突き刺さる。
最小不幸社会という言葉がある。これは、民主党の党首が菅氏の時に唱えられたものである。
最少不幸社会とは、文字通り不幸を最小にする社会を作ろうというものである。それに対して最大幸福社会というものがある。こちらは幸福になる人が最大になる社会という事である。
最終的には同じ結論になりそうだが、方や不幸を対象とし、方や幸福を目的とするところに違いはあるだろう。
感想からいえば、どちらも実現不可能というしかない。何故かというと、人それぞれの不幸、幸福の尺度が一定ではないからである。
例えば今回の福島の件で、住民避難を行っている福島県の双葉町々長は、放射線汚染物の中間貯蔵施設設置についてこう述べた。
引用 河北新聞(http://www.kahoku.co.jp/news/2012/01/20120109t61009.htm)
野田佳彦首相が8日、「原子力災害からの福島復興再生協議会」で福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設を福島県双葉郡に設置することをあらためて要請したことについて、出席者の一人で受け入れに反対している福島県双葉町の井戸川克隆町長は協議会後、「話が一方的に進み、納得できない」と不満を述べた。
「双葉郡民を国民だと思っていますか、法の下の平等が保障されていますか、憲法で守られていますかと尋ねた」
人は、やはり自分が可愛い、更にそれに連なる共同体の利益を守ろうとする。避難している双葉町の町民にとって、今回の事故の責任が無い筈なのに、強制的に故郷から追いやられた今の状態は受け入れがたいことだろう。
更に自分たちが居ない間にその土地の今後が討論に参加できないまま決められていくことに納得しないのは、十分理解できることである。
憲法の下の平等というのは、言葉にすることは容易い。しかし、先に述べたように各々の国民の不幸や幸福についての尺度が異なるように、今回の事に関しても、日本国民の最大多数の幸福を求めるためには、どこかにその汚染物の貯蔵施設が必要である。
しかし、それによって不幸と感じる人が増えれば最小不幸は実現できないわけで、ここに日本のジレンマがある。
速やかに恩恵を受ける人を増やそうとすれば、そこに不利益を被る人が生まれる。その不利益を減らすために更にその実行を遅らせればその時間分の不幸が生まれる。
今回のそもそもの原因は、原子力発電所の事故処理に問題があり、そこに誘致してきた際には、隕石が落ちるよりも安全だと考えていたから、原子力施設が自分たちの住んでいる身近にあってもこのような危機が起きるとは考えずに生活してきた住民にその責任を負う義務は存在しない。
また話は頭に戻る。最小不幸とは、そういった犠牲となるものの数を減らし、他の大多数もそれを減らそうとする社会を実現しようということだろう。そのためには、不幸と思う人の幸せのためにその不幸でない人たちは、その不幸な人のために何かを犠牲にする必要がある。
それによって毎日の暮らしの中で、タイが目刺しに成ろうとも不幸と思ってはならない。その不幸と思った瞬間から、その不幸と思った人がまた食卓にタイがのるようにするため周りがまた努力しなければならないことになるからである。
あくまで不幸な人が努力の主体ではなく、その周りの人の努力で不幸を解決しなければならないのだ。
では、反対に最大幸福社会の実現は、どこにあるだろうか?
その最大幸福は先に述べたように、幸福の尺度が人それぞれなため、全く意味をなさない。
ハッキリ言ってしまえば、国民を全て洗脳して、どんな苦しみや困難が待ち受けようとも、それを受け入れ自分の全てを○○に捧げますという国民を多く作ることにある。それが一番簡単なことである。
結論から言えば、最少不幸社会、最大幸福社会どちらも、あくまでもスローガン的な意味合いしか持たない。
どちらも一見正しそうだが、実現できない夢物語を国民に与えているだけだろう。
日本社会に限らず、世界に生存する人間の生き方を変えることはできない。その人が考える幸せは必ず何らかの犠牲に成り立っている。その犠牲の積み重ねが集団生活に他ならないからである。
ある意味、全ての人間が不幸と幸福を受け入れながら生活していかなければならない社会なのである。