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イスラム教の指導者の風刺画問題について。
引用 AFP(http://www.afpbb.com/articles/-/3036650)
アジア歴訪中のローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王(78)は15日、前週フランス・パリ(Paris)で発生した一連の襲撃事件をきっかけに言論の自由をめぐる議論が世界中で広がっていることに関連して、神の名における殺りくを強く非難すると同時に、「宗教を侮辱することはできない」と述べた。
これに対してフランス大統領は、宗教も風刺の対象となるのが自由社会であると述べた。
もし、宗教が風刺の対象でないと仮定したら、それにまつわるものの全てが対象では無いのかという事にきっとなる。風刺というのは、その物事の曖昧さを皮肉るものという側面がある。
更に宗教が非難されることが無ければ、宗教のもと成立した独裁国家は非難される対象では無くなる可能性が出てくる。その線引きは難しい。
今回の発端は、自分が信ずる宗教の指導者が風刺画を用いて侮辱されたことで、それがテロ行為に成ったという事である。
自分の信ずるものを侮辱されれば暴力行為に及ぶことも現実の日常生活では起きることである。その軽いものがいじめのような事に成るだろう。自分の出自に対して言葉の暴力を振るわれれば怒り反撃する人間もいる。
またその侮辱に対して、自分より劣った相手と見下して知らないふりをすることも可能である。それは、無視することによりそういった侮辱が存在しないと心に思わせることである。
侮辱に対して反応を示す、示さない、更にその中間に少々の侮辱には耐えるが限度を超えると反撃をするという人間もいる。全ての人間が一律の行動を取ることは決してない。
今回のテロ行為に対しても、他の宗教を中傷するのは良くなく、フランスの新聞社の行動は許されないという意見もチラホラ上がっている。上に上げた法王も宗教に対する侮辱は許されないという意見を表明した。
やはり行き着くところは、雑多な考えをもつ人間が集まった国家において、一つの考えを持って行動することは困難で、一つの意見に対して複数の意見があり、過激派がいて穏健派がいる状態になるのは仕方が無いことである。更に、その考えを纏める一つの方法が宗教だとしたら、今回の事件は必然である。
今回の事件が、今までの国対国という流れから宗教対宗教への流れの転換点だとしたら、今後世界に起きる紛争の過酷さが強まるのは当然と言える。何故なら、国という対象が無くなることでどの国でも事件が起こりえるようになるからである。
今年は、大きな宗教戦争が起こる切っ掛けとなる年かもしれない。