チュニジアの事件から考える

 曇り、気温は2度。

 昨日は平凡な日常が始まったような気がしたが、遠く離れたチュニジアでは3人の日本人が犠牲となる事件が起きていた。異国の地で事件に出会った犠牲者の人は、まさか自分がそんな事件に出くわすとは思ってもみなかっただろう。

 今後世界のどの地域でも、確率的にはばらつきがあるだろうが事件に出くわす可能性がある。更に、そういった世界を不安に陥らせる行動を取ることで、自分たちの存在を主張し、自らの過激思想を世界に広めようとしている。

 どんなに平和な日常を過ごしていてもある一定数の過激思想に被れてしまう人間は存在する。その人間たちは、行動する切っ掛けを掴めていないだけで、何かあれば勝手に動き出すがん細胞のようなものである。

 そこに何らかの刺激と栄養(武器)を与えれば勝手に仲間に成り、行動を起こすことを彼らは知っている。世界が物騒になれば成る程彼らの思う通りの展開になる。

 それに対抗するため、日本を含め多くの国が彼らに対して制裁を加え彼らの活動を制限しようとしているが、その方法は上手くいっていない。今は空爆を主としているが、その攻撃により罪のない人々も巻き添えを食い犠牲に成る。

 多くの犠牲者を生み続けることが、憎しみの再生産に繋がり、戦いは泥沼化していくことになる。武器による攻撃は、憎しみの連鎖を生み出すのはもはや常識である。

 ではどうすれば彼らの過激な行動を抑制することができるのであろうか?

 それは人類の歴史をひも解いても解決策は見つからない。いうなれば攻撃を加えることなく放っておけば長い時間を掛けて淘汰されるか、彼らの方が繁栄するかもしれない。

 多くの民族が世界を征服しようと支配領域を増やす戦いを繰り広げてきたが、代が変わればその勢いも衰える。それは支配者が征服した領域に住む住人全てを支配できるキャパシティを超えると急速にその力を減じてしまうからである。

 彼らも一定域の支配領域を超えた時、その統治能力を失っていくはずである。国土が巨大化すればするほどその衰えは一瞬である。それは歴史が証明している。ただ、人間の一生であれば、その支配される時間に全く含まれる多くの人が存在する。

 支配が続くのは、支配者が3代続く位の時間である。凡そ100年位の月日である。日本の江戸幕府でも200年なのだからそうした支配力は、長くは続かない必ず変わる。

その時と場所に生まれた人は、その中で一生を終えてしまう可能性が高い。