子殺し

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引用 北海道新聞http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0138670.html) 

札幌市西区西野2の3のマンション一室で27日夕、無職佐藤由紀子さん(42)=江別市東野幌=の遺体が見つかった事件で、札幌西署は28日、殺人の疑いで、この部屋に住む佐藤さんの母、無職和子容疑者(64)を逮捕した。同署などによると、佐藤さんには知的障害があったといい、和子容疑者は「自分が死んだら娘が一人になるのが忍びないと思ってやった」と供述しているという。

 親が子を殺し、子が親を殺す。既に珍しい事では無い。それぞれの犯罪に何らかの理由があり殺すことで問題解決をしようとする。

 もし、この母親が自分が先に死んでしまった後も、この娘さんは、誰かに守られて一生を終えたかもしれない。彼女の人生を自分の考えだけで決めてしまう権利はあるかという事に成る。

 この問題は、例え知的障害が有ったとしてもそれを一人の人格として認めるなら、例え実親だとしても許される行為では無いだろう。

 ただし、その親子という狭い領域で考えるなら同情の余地はある。今まで子育てしてきた42年の歳月を考えればである。

 だから子殺しの親に対して裁判では抒情酌量という裁きが存在する。それは、親子という血縁関係に横たわる他人が入り込めない感情というものが存在するからだろう。


 ただし、今の世の中は曲がりなりにもそういった保護を受けるべき人たちに対して保護を施せる何らかの方法が存在する。その存在を知らずに判断を下してしまうという事もある。

 

 自分一人では生活していけない子供を残して先にこの世を去るより、自分の死の道連れに子供を殺してしまうという事がやはり正当化されてはいけないだろうと思う。

 この事件以外にも、生活苦や自分の人生を悲観し、子供を道連れに心中する事件が後を絶たない。自分の人生を悲観するのは勝手だが、もし子供をこの世に誕生させた責任を取るのなら自分一人で命を絶つべきだとつくづく思う。

 亡くなった子供たちにも生きていたら喜びに満ちた人生が待っていたかもしれないと思うと残念に思う。今回の件も、殺された彼女の中では満ち足りた人生だったかもしれない。ただし、また彼女にも別な考えもあったかもしれないが、それを知ることはできない。