介護施設転落死

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引用 中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2016021702000117.html) 

川崎市の老人ホームで入所者が転落死した事件で、元職員が殺人の疑いで逮捕された。亡くなったのは三人で、いずれも二〇一四年の出来事だった。警察の初動捜査に問題がなかったか疑問は残る。

 事件が起きたのは、川崎市の介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」だ。入所者の八十七歳の男性が一四年十一月の深夜に四階のベランダから転落した。投げ落とされたと神奈川県警はみて元職員を逮捕した。この元職員も「殺そうと思ってやった」と認めているとされる。

 同年十二月にも八十六歳の女性が四階のベランダから、九十六歳の女性も六階のベランダから転落死している。この二人についても、元職員は関与を認めているようだ。なぜ殺人に至ったのか、動機などの徹底解明が求められる。

 そもそも三人の入所者が相次いで転落死するという異常事態に警察の対応が十分だったのだろうか。当初は単なる事故死とみてはいなかっただろうか。警察は死因特定のための司法解剖もしていなかった。二件目の段階で、所轄の警察署は事件性を疑ったが、県警本部にまで伝えていなかった。もし事件性があると考えて捜査していれば、三件目の事件が防げた可能性もあり、悔いが残る。

 この事件2つのポイントがある。

 

 1.介護に携わる人間が必ずしも善人では無いこと

 2.相変わらず神奈川県警の杜撰な捜査案件であること


 1については、自分の心を見直してみても善と悪が存在することを知っている。すべてに善であることがどれ程困難であるか、善であろうと行動すべき時に必ず悪が顔を覗かせる。

 性善説は、人はすべての行動は善から始まるが、時として悪意のある行動をとるから、その一瞬の悪を悔い改めれば善でいられるという事である。

 反対に、性悪説は人は悪意を持った行動を行うことを考えているが、全てが悪意がある行動をするわけでは無く自分の利益のための行動が他人にとって善い行動とみられるということである。善い行為を行う基準が自分にあるため時と場合によって他人にとって悪意のある行動となる。

 介護という職業は、他人の面倒を見る行為である。当然、善意が無ければ成り立たない行為である。しかし、今の世の中進んでその職業に身を投じる人間が多いわけでは無い。その中の一部には自分が生活するためにその職を選んだ人間が必ず存在する。

 自分が生活するため、その職場を解雇されないために仕事をしていれば、本来の人間の悪である本能が顔を出す。自分が休みたい楽をしたいという気持ちと、自分がなぜこんな仕事をしなければならないのかという疑問が当然沸いて出るだろう。そういった人間の本能という物を隠すことはできないだろう。

 年老いた人をこれから未来ある若者に委ねるのは政策として間違っているだろうと思う。もし可能なら介護は、ロボットに行ってもらいたいと思う。幾ら介護される側が介護する側を罵倒しても淡々と業務をこなす存在が無ければ若者は仕事をすることはできなだろう。

 感情を持つ人間が介護に当れば必ず人対人の関係から衝突が起きる。本来ならそれを介護する側が受け止めることになるのだが、肉親と言えども虐待や殺人が起きる。それが人間である。

 自分は介護現場にこの先ロボットが導入されることを切に願う。これから起きる老人社会に向けてやらなければいけないことだろうと思う。

 次の2は、何時も話題に成る神奈川県警の事である。神奈川県は横浜や川崎など人口密集地を抱えるところである。犯罪は数多く発生するのは判る。しかし、余にも職務怠慢が話題になる警察でもある。

 今回の事件などは、素人が考えても事件性が高いものである。それを捜査せず変死で片付ける神経が判らない。介護を受けるような老人は死んでも仕方ないと考えているのだろう。或いは、事件捜査に掛かる時間を他に振り分けたいと考えたのかもしれない。

 警察の中にも人の命の軽重という考えが存在する。そこにあのはやはり自己利益のために行動する人の姿である。まさしく人間の本質は悪である。