死ぬまで健康とは?

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 薬局の前の幟に、「死ぬまでボケない」という文句が書いてあった。同様の表現に「死ぬまで健康」という言葉がある。健康という言葉は、ボケないことも健康のうちに含まれるため含有されるのだけれども。

 人の健康寿命は2016年のデータをもとに男性72.14歳、女性74.79歳と厚労省が発表している。健康寿命は、病気で治療したり、リハビリ支援を受けている状態ではなく自立して生活している人の年齢ということである。

 寿命といえば平均寿命という言葉があり、2016年のデータでは、男性80.98歳、女性87.14歳である。これから見てわかるように多くの人は人生を終える前の10年程度は多かれ少なかれ病気に掛り健康ではない状態になっている。

 死ぬまで健康というのは、多くの人にとって当てはまらず、いうなら健康な人が突然の事故で亡くなるといった例でなければ死ぬまで健康でいることはできないということである。だから死ぬまで健康でいられるという望みは、ぜいたくな望みなのである。

 しかし、最初に挙げた死ぬまでボケないというのは、ボケるという事実だけを求めるなら可能なことである。病気をしていてもボケていない人は大勢いるのだからボケないで死ぬことは健康のまま死を迎えるより実現性は高い。

 

 

 健康に気を使いボケないことにも気を使い死ぬまで人は生活を律しなければならないとなると本当に大変なことである。人生をきちんと終えるにはまじめに生活しなければならないのである。酒タバコなど年老いた人には近づくのもいけないこととなる。


 人は永遠の命を持ち合わせていない。さらに精々長生きをしたとしても100歳くらいでそれ以前に大半の人が死んでしまうものである。それが当然のことなのである。人は、無残な死を受け入れようとしない。死ぬまでだれか他人の世話になり医療費が幾ら掛ろうと我関せずである。意識がなかろうと体が動かなくなろうとも心臓が鼓動を止めるまでは誰かの世話になりたいと考える。

 我々は死に対してヒステリックになりすぎているのではないかと思う。それは、日常的に死に対して向き合うことのなくなった現代社会の歪みだと思う。日常的に道路に死体が横たわっているような国の人は他人の死に対して無頓着になるし、自分もいつかは同じような状態で道路に横たわる可能性を認識している。そのような国民がいる一方、今の日本は死に対して過剰反応を起こしているきらいがある。それは、日常的に死というものから隔離された状態で今まで生きてきた人間が死という存在そのものを受け入れたくないという極端に走った状況になっているのであろう。

 死を忌み嫌い、家で年寄りを看取ることもなくなり、そのなくなるまでの間自分の身近から死を遠ざけて生活しているのが現状である。それが当たり前になった今、かえって自分以外のものがきちんと対応しなければそれは道徳に反し許されないことだと糾弾する。それはあくまで当事者ではなく外野の視点からである。

 死というものを過剰に意識するあまり、その死を忌み嫌い、他人の仕業を許せない一種の潔癖症に陥っているのである。死ぬまでボケないように努力するのは個人の自由であり、せっせと健康食品に頼ることも良いだろう。また健康的な生活を送ること他人がとやかく言う必要もないだろう。

 しかし、運命は運命である。人はそのことを受け入れる必要がある。そんなに努力してもボケてしまったり病気になったとしても他の人のせいにすることなかれである。それは自分に対してへの戒めでもある。