差別に対する物差しは移ろう

 曇り、気温は14度.今日は道東で真夏日という予報が出ていたがこちらの方はそれほど暑くなりそうもない.

 

 今日の新聞の特集に、自分の肉親の特殊な病気によりいじめや差別があったという記事があった.

 人間社会の特徴に同族性というのがある.周りと同じであれば集団として認知されるが、特別な特徴があれば集団から排除しようとする.

 特別な何かは、それを異端と認めるか認めないかという基準であるため、その基準をだれが決めているのかという問題になる.

 異端の基準を決めているのは空気である.誰かが誰かを異端と決めつけてもそれを周囲が同調しなければその場限りの非難で終わるのだが、いったんそれを誰かが認めその範囲が広がると集団的な思想になる.

 それは誰が誰を嫌いという些細なことが原因で言いがかりのようなものでも、一端週集団が認めてしまえばそれは排除につながる.

 

 しかし、差別による排除はいけないとこの記事は示唆しているが、実は集団内の異端の排除は、思想の違いでも起きる.

 こういった記事を書いている新聞もそうなのだが、戦時中、戦争に協力しない者は異端だとして排除してきた歴史を持つ.それは集団の思想から外れる者を排除することで自分たちの利益が得られるという思想である.

 しかし、その思想も戦争が終わると180度手のひらが返り、それを排除しようとする.あれだけ戦争をする意義が理想社会を作るためでそれによる犠牲を厭わないと言っていた人たちから、理想社会を目指したのは間違いだったと反省を促す.自己否定の先にあるのは、それまで先頭に祭り上げた人間を断罪する.

 

 もし、戦争に勝利し本当に大東亜共栄圏ができていたら今の新聞はその戦争を正しい戦争だったと記事にしていただろう.何故なら国民はそういった記事を求めており、戦争は誤りだったと認める人は少数派にすぎないからである.

 

 集団の基礎は、同調性である.その壁を新聞といえども崩すことは不可能である.逆にその同調性を乱すものは排除すべきとキャンペーンを張る.一種の風見鶏である.

 人間社会において差別や偏見をなくそうと活動することは正しいことなのだが、それにより新しい差別が生み出される可能性もある.上にも書いたように集団の意思は移り気だからである.