死に方を考える

 晴れ、気温は1度.とうとう氷点下近くまで気温は下がってしまった.街並みの紅葉もここ2,3日で進み赤や黄色が目立つようになっている.それでもまだ緑色をした葉を茂らせた木もあるので来週がピークだろうか.

toyokeizai.net

同時入院した「理想の夫婦」が迎えた衝撃の結末 | 漫画 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 東洋経済オンラインに取り上げられている話が高齢化社会の現実を見せつけられる.

 漫画『お別れホスピタル』の一話である.この話は、理想の夫婦と思われていたのに実は違うという話なのだが、その舞台というのが、終末期医療を扱うホスピスである.

 既に高齢化社会が進む日本にとってこういう環境にあり、夫婦が健康で過ごしていてもいつかは夫婦そろって同じ病室に入院する時が来るようになる可能性が高く、核家族の今の時代、終末期は家族ではなくこういった病院、施設で最後の時を迎えるようになる.

 この話を読んでいて感じたのは、夫婦の在り方というよりも、自分が最後を迎える場所はどこなのかということなのである.こういった病院、施設、あるいは自宅など色々な場所が考えられるが、そのなくなる場所を老いてしまえば殆どの人が選択できないことである.

 自分の無くなる場所を選択できるのは恵まれた人で、多くは家族の希望であり、あるいはその家族もいない人は、誰かも知らない人の世話になることになる.それが現実である.

 自分で死ぬ場所を決められたのは、はるか昔のことだったのかもしれない.生まれたときには何時死ぬかまだ決まってはいない中、虐待で幼いまま死んでしまう人もいれば若い時に交通事故で命を落とす人もいる.その人の運命は判らないまま幸運に恵まれ長生きをして平均寿命を迎えて死ぬ際に死に方を選べるのは本当に幸運なことなのだろう.しかし、人は、その幸運さに中々気付けない.それは、自分の死を受け入れることに納得していないからである.

 そういったことを考えないで死ぬのも一つの生き方であるが、一度、考えてしまうと心に棘が刺さったようになってくる人もいるだろう.そういう人は、何時もは忘れているのにふとしたきっかけで思い出し、自分の死に方を考えるようになる.

 死というのは、人生の中で生きるということと切っても切り離せないものである.