11月11日に思う事

 このところ、朝は晴れの日が続いている。今日も晴れ。気温はマイナス2度。

 11月1日に、勘違いをしてしまった。ぞろ目で月の数字と日の数字が3つ以上並ぶのは、1月11日、2月22日、11月1日、11月11日の4つである。前の記事も手直ししたが、ここでも訂正して置く。


 11月11日はぞろ目だけに何かと記念日は多い。更に今日の午前1時11分11秒などは綺麗に1の数字が並ぶし、午後1時は正式には13時なので少しぞろ目に疑問は残るが午後1時11分11秒も同様である。

 きっとその時間に成ると、ツイッターなどにその関連したつぶやきが流れるのだろう。何となく気持ちが良いものである。更にそれが年に成ると凄いことに成る。もう既に直近の西暦1111年は遥か過去の話であり、その次の11111年は当然自分は味わう事はできない。

 そういえば、平成11年には何か行事が有っただろうか。きっと人間だから1並びを記念して何かあったのだと思うがもう15年前の出来事を覚えていない。その頃特にそんな考えは無かったのだろうか。

 人間は整然と整理されたものを望む傾向にあると思う。例えば公共の建築物等は、そもそも乱れていると手直しされ設計図通りの完成品を求められる。ブロックが一つでもずれていれば違和感を覚えるしそのまま完成品として使われることは少ない。何かを買い求める際でも、色がおそろいであるはずのものが少し色違いが混ざっていればそれを避けて同じものを選ぶだろうし、形が崩れていたり傷がついてるものよりも無いものを選ぶのが人間の心理である。

 ある意味そうでならなければならないと小さいころから洗脳されているのかもしれない。更に言うとその整然と整理され光景を自分の手で破壊したいという欲求を持つのも事実である。

 例えば芸術作品などは、わざと整然と並んだ一部を乱すことにより見る人に何かを感じさせる。人間は理路整然と並んだものに違和感を覚えないが、一部の乱れが極わずかでも感知できる視覚回路があるからそれをおかしいと感じてしまう。それが見る物を引き付ける。

 時は、形の無い壊しようもない単位である。それを変化させたとして誰がその違いを感じ取れるか判らない。もし、誰かが時の流れを狂わしたところで人間の感覚で捉えることは不可能である。もし、今日の午後1時11分11秒が普段より1分長くとも人間が機械を使わず感じられる長さは同じだろう。何故なら、常に感覚上の時は伸びたり縮んだりしているからである。

 そんなとりとめない話を書くのも今日が11月11日だからである。