晴れ、気温は3度。


 今一番悩んでいるのは、僻みや嫉妬、恨み等といった人の心である。自分も無いわけでは無いが他人のそういった姿を見ていると、自分もダースベイダー卿ではないが暗黒面に落ちてしまいそうな気がする。

 イエスキリストやブッダマホメットが悟りを開き自分たちの宗教を作ったが、彼らは果たしてそういったものから抜け出せたのだろうか。

 カトリック教では、「7つの罪源」という言葉がある。それは、「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」であり、仏教では煩悩として108個もあるわけである。

 我々が生きていくために身に着けた垢のようなものを全て削ぎ落とし、身軽になって生きていけたらと思う。少なくとも人を傷つける、人を陥れることがない様に、或いは自分がそうしないように生きていくべきなのだと思うのだが、実際はそうすることが難しいものなのかもしれない。

 我々が年に取るにつけて見に付けた権威というのもその一つに当るだろう。人生を競争で生きていくといつか自分が誰かの不幸を喜んでいることに気付く。

 誰かがレースから離脱することはライバルが一人消えることであるし、それにより自分が利益を得られると単純に考えてしまうからである。

 それがふつうであると思い、きっとそれが人生を生きるエネルギーに成ると信じていた。しかし、年を取り冷静に周りを見渡せるようになると他人のその持つ独特の波長が汚らしく思えてくるのである。

 

 例えば会社を経営していて、会社が儲ければ自分の給料が上がるからという自分中心の考え方と、会社が儲ければ従業員に儲けを分配でき感謝されるというのは結果が同じでも180度違うものである。

 そういった考えの違う人たちと一緒になり会社が利益を上げるという共通目標のもと働いていても、その考え方の違いに違和感を感じずにはいられないのである。

 前者も後者も従業員に利益を分配するという結果は同じである。受け取る従業員は金さえもらえれば満足でどちらでも良いと考えるかもしれない。結果が同じなら過程が異なっていても良いだろうというわけである。

 そういった過程で出てくるのが、最初に書いた嫉妬や妬みである。そういった事を原動力にここまで来た人生を否定しない。結果を出してきたのだから従業員には文句は無い。しかし、あからさまのその姿を現してしまえばそばにいても幻滅するし嫌悪感しか生じない。

 それ自体が、一種の暗黒面に落ちた状況なのかもしれない。人を軽蔑することが罪に繋がることなのかもしれないからである。

 はたして、聖職者たちが同僚としていたら何を思い何と言うだろう。それを聞いてみたいこの頃である。