モノの見方

 湿り雪、気温は零度。パウダースノーとは程遠い、年々雪の状態は湿り気が多く成ってきているように感じる。


 モノの見方と言うのは立場によって変化する。例えば、男と女、年寄りと若者といった感じである。その立場により意見が異なるだろう。例を挙げたが必ずしも黒と白と言うように2つに分かれるものでもない。またまた例を挙げるなら、歩行者、自転車に乗っている場合、自動車を運転している場合などは、後に行くほど立場が強くなる。

 歩行者なら、自分の身を守るため自転車の走行や自動車の走行に気を付けなければならないのに対して、自動車を運転するものは歩行者や自転車の動きに注意をしなければ無いのと同時にそれを邪魔な存在だと思ってしまう。

 立場が違えば考え方やモノの見方が変わってくることは、感覚として判っているはずなのに何時しかその環境が普遍的になるとモノの見方が固定化してしまう。

 相手の立場に立った判断が出来ない人が徐々に増えてくるという方が正しい。更に恐ろしいことに人間の考えは変わるからややこしくなる。以前までは別な主張をしていた人が、その立場を変え真逆の主張を始める。本人にとって今の考えが正しい考えで以前の自分は誤っていたというならともかく、昔から同じ考えであったというのを聞くとその人を軽蔑してしまう。しかし、当の本人は気付いていないことが多い。

 人間は、普遍的なものを望んでいる。例えば伝統などは古くから伝わるものをありがたるものである。それは自分たちが常に変化していることに対する裏返しの反応だと思うのだが、変わらないことが純粋だと思っている節がある。

 だから、国が違えば考え方が変わるように過去の風習を残そうと努力するのだが、実際は、過去と今は変化を続けているのである。古代ローマ帝国の風習と現代のローマ市民の風習は異なるだろう。

 グダグダと書き連ねてみたが、立場によってモノの見方が違うというものは、究極的には人それぞれでモノの見方が違うという事でもある。しかし、生活する場所、肌の色の違い、話す言語の違いによって周りからレッテルを貼られることによってどこかに共通点が生まれやすいという事だけである。

 そして、その似通った思想を持つもの同志でも、考えは何時も変化しているためある時期は似たような考えを持っていたかもしれないが、一度環境が変われば違う発想を持ってしまうものでもある。

 生まれて死ぬまで一貫した立場を取れるなら取りたいというのが理想の人の姿であるなら、その変化した自分を理解した上で発言する人間がそれに近い存在だと思う。