人の命

 雪、気温はマイナス3度。

 

引用 時事通信http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112900844&g=soc) 

北海道音更町のアパートで昨年8月、住人の美容師金野恵里香さん=当時(31)=を刺殺し放火したとして、殺人罪などに問われた元少年(20)の裁判員裁判の判決が29日、釧路地裁であり、三輪篤志裁判長は元少年に懲役23年(求刑懲役30年)を言い渡した。

 

 この事件を敢て取り上げた理由は、道内で起きた事件であることと、判決理由が「死への興味や関心から、何の落ち度もない被害者を殺害しており、命の重みを全く顧みないものだ」という点である。

 では、人の命の軽重はどこで測られるものであるか?

 例えば交通事故で小学生の命が多数失われてしまった事件があった。

引用 朝日新聞http://www.asahi.com/articles/ASJBX319PJBXULOB003.html

28日午前8時5分ごろ、横浜市港南区大久保1丁目の市道で、軽トラックが軽乗用車に追突、軽トラックが横転し、登校中の小学生の列に突っ込んだ。神奈川県警などによると、市立桜岡小学校1年の田代優(まさる)さん(6)=同区大久保1丁目=が車の下敷きになるなどして死亡した。児童8人と軽トラックを運転していた男性(87)、軽乗用車に乗っていた2人の計11人がけがをした。

 この件の裁判が行われているか定かではないが、交通事故の場合、過失運転致死傷罪、危険運転致死傷罪に問われなければ懲役刑となることは無く罰金刑で終わりになっている。

 何故、交通死亡事故においての人の死と殺人事件の死が同一の刑罰ではないかというと、日本国内に発達した自動車社会において誰もが死亡事故をおそれて自動車の運転ができない状態になれば自動車社会そのものの発達が無くなる恐れがあり、更に自動車を運転する人は自賠責保険に加入していること等から賠償金の支払いがある点などから情状酌量されるということらしい。

 明らかに人の死には、軽重がある。交通事故の場合と比べ、殺人事件の場合、刑事裁判では、加害者に賠償金の支払いは無く民事で争わなければならない点と、財産が殆どない加害者の場合は請求しても金銭を受け取れる保証はない。

 人の死に実際に軽重があり、人を殺すことに何ら呵責を覚えず実行する犯人にとって刑務所に服役することに何ら苦痛が生じないとすれば、そもそも人を裁く意味もないということになりかねない。

 果たして被害者の命と加害者の命の軽重はどこでバランスがとられるべきなのだろうか?

 今の日本には、死刑制度が存在する。しかし、死刑判決が下されたら直ぐに死刑になっているわけではない。死刑囚は、いつ自分の命が経たれるかわからない状態で服役している。

 

 その時間的差は、死刑執行の際に法務大臣が決裁することにある。判決は司法である。法務大臣の決裁は行政である。その間に、国内の都合を考慮しながら執り行われる。

 加害者の人生の重さと被害者の人生の重さは、果たして同じに図られているのだろうか?その点では否というしかない。

 人が、人が作った法に則り人を裁くことは今の日本ではバランスを取りながらというのが現状である。その中で人の命の軽重は変わってくるともいえる。

 人の命の軽重は、更に言えば暮らしている国でも違う。今の平和な日本で言われている命の重さもところが変われば自己責任の範疇に入ってしまう。いうなら自分が殺されても誰もそれを裁判に問うてくれる人がいない地域もある。

 人の命の軽重は、暮らしている国でも違う。その暮らしている範囲内で人が人を裁くようになっているだけで、世界の上で人の命の軽重が問われるとしてら、それは無いというしかない。

 今の日本の中で人の命に軽重があり、それは法の下で漬けられているに過ぎない。