難民受け入れ

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 今日の朝のニュースで、安倍総理がトランプの難民政策にきちんと意見を言えないのはおかしいと話していた。そこにあるのは大きな違和感である。

 今の日本の状況を言えば、地理的状況からか排他的である。かろうじて外国人が風景に溶け込んでいるのは東京を筆頭とした大都市である。

 しかし、外国も同じだろうけれどそういった一般的な日常に常に外国人がいる環境でなければ人間は排他的な傾向を持つと思う。

 ヨーロッパやアメリカが難民を受け入れるのも長い年月の人間の移動が常にあったからだと思う。しかし、これほど大量の難民が受け入れるのにもやはり時間的な猶予が必要である。その一つが、受け入れる自分たちの心の中にある障壁を如何に取り除くことができるかということになる。

 その障壁を取り除いてさえやればいくらでもい受け入れることができるだろうが、そこまでに行くのには多民族の集団の中に日本人が入っていくことが必要である。

 異質なものを受け入れることは常に困難を伴うことは仕方がない。その困難に対する恐怖や嫌気が対応を鈍らせるのである。それが普通である。

 テレビという放送の中でコメンテーターが訳知り顔で答えられうのも、発言に大きな責任を持たないからともいえる。言葉に責任を持てば持つほど言葉数が少なくなる。

 言うなれば一国の首相の発言も重要である。国会答弁でトランプを非難し、難民受け入れを行うべきだと述べるにはあまりにも日本の実績は少なすぎる。

 今までの伝統から日本国籍を得るのはある程度の能力が認められるか、日系の子孫であるかが基本である。そういった国の流れを開放する必要がある。

 例えば難民を10万人、20万人を受け入れますと表明して果たして国民はイエスというかという問題である。以前、看護師、介護士のために東南アジアから研修生を受け入れるとしたが、これも大きな問題を含んでいる。その多くが未消化のまま何となく物事が進む不可思議さを感じずにはいられない。

 日本語をしゃべることが難しく、更に一定の教育を受けていないとなるとそこからどのように日本人の集団にとこ込ませるかが大変な問題となるだろう。

 果たして、難民を受け入れたのちその人がたが日本に失望してしまう可能性は高い。日本の張りぼてのような姿にあきれてしまうだろう。そういった国家がこれから先も存在できるかという問いに対して、日本もやはり多国籍国家にならざる負えな処に有無を言わせず放り込まれるのだろうと思う。