人は流れる

 晴れ、気温は22度。朝から気温の上がりそうな暑さである。

 人の人生は川の流れのようでもある。自分の意思で泳ぎ切ろうとしても流れに流され目標とするところにたどり着けないこともある。

 しかし、流れに身を任せたままでは自分が思うような生き方はできないわけで、流れに逆らいながら泳ぐことも必要であるし、その流れに乗りながら舵をとり目的地になるべく近付くようにすることも可能だろう。

 でもその抗いも流れな緩やかであれば簡単だろうし、川底に足をつけ歩いて渡り切ることもできる。しかし、今回の大雨のように大量の水が流れてしまえば人間一人の力でどうにでもなるはずもない。

 そんな大雨の時に川に流されてしまう人もいれば水も枯れ川底が見える時に渡れることもある。それが人生あるいは時の運と言ってしまえば簡単であるが、その一人一人の人生の歴史の綾がどうなっていたかなど他人が知る由もない。

 もしかするとその一人の人生の様々なことなど誰一人として知ることは無いし、心のうちなど知る由もない。


 そういった人の歩みの中で触れ合うのはわずかな時間でしかなく、十字路で人がすれ違う程度のことでもある。その人の人生にとってどれほど人とすれ違い時間を共有するなどということはあくまでもほんの偶然でしかない。

 

 川の流れのような人生の中にもいろいろな出来事が起き色々な結果を生む。誰かが日本に原爆を落としたように、その人が実行した行為の元で何万人の人の命が奪われているのかも知らないし、その命令を下した人の心の中をうかがい知ることはできない。

 その歯車のような出来事も誰かが切っ掛けとなって起きてはいるのだが、そのことを知っていたかもこの歴史の中では見えてこないものではある。

 川の流れが絶えることなく続くのであればその流れの一瞬に起きる波紋を記憶する人がいないように人一人の出来事などは木の葉から落ちる水の水滴が川面に与える影響位なことなのだ。その滴ごときに感情があったなどということは誰も気づきもしないものだろう。

 この一瞬にも川の流れは絶えることなく流れて行ってしまう。