加害者

 晴れ、気温は16度と涼しかった。日中は上がるだろう。


 昨日、老人が自転車とぶつかり重症を負ったというニュースが流れていた。加害者は、歩道を時速20kmでしかも無灯火で走っていたというから悪質である。

 きっと、自分は大丈夫という軽い気持ちで走っていたのだろう。夜中の無灯火であっても人が見えるという過信である。確かにこんな事故が起きる確率は、自分が自動車にひかれると同じくらいだろう。

 きっと事故を起こした後、後悔しているに違いない。それも、もしかすれば相手に対して何故あそこの道を歩いていたのだと思っているか、それとも本当に何故猛スピードで歩道を走っていた自分に対しての後悔かもしれない。

 人間の心の奥に潜む何かというのは外からは窺い知れない。

 佐世保で起きた殺人事件も似たようなものだろう。本当に加害者の心の奥を表すことはできない。人は必ず心変わりをする。変わるというよりも考えれば考える程自分の本当の心が判らなくなりそれを言葉で表現することで表しているに過ぎないからである。

 その口から出た言葉が自分の心を縛る鎖みたいなものである。それがあるから自分の内面を表現したと考えているだけで、その言葉を発した直ぐ後からまた色々な考えが浮かんでは消えていく。

 この女子高生が犯行時、何を考えて行動を取ったかを表すのは非常に難しいことだと思う。今後、捜査によって状況が明らかに成るだろうと皆は期待するかもしれないが、本当にその時何を考え行動に移したのかさえ曖昧な記憶の領域から今の状況に適した言葉を掬い取るしかすべはない。


 人は、信念を持って生きていると言われているが、信念そのものが心だとするとそれは嘘である。それは、心とは別に決まった行動を取ることを決めているから周りは信念を持って行動していると勘違いしているだけである。

 上のようなニュースを聞いて、考えることは、なんて馬鹿な奴がいるのだろうという思いである。気を付けていれば、相手の気持ちになってみれば、などという決まりきった言葉で相手を批難する。

 しかし、それは自分の心に潜む悪意を知らないだけで、その悪意は容易に誰でも心の外に顔を出す。それは、どんな善人であろうとも例外ではない。その心に潜む悪意を気付かずに生活している人が殆どである。

 本当の心に潜む悪意を解放した時、人間の醜さというものを思い知る。そんなもんである。