難民問題

 晴れ、気温10度。昨日の夜は急速に冷え込んだ。そろそろストーブが恋しい時期になってきた。

引用 朝日新聞http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKCN11P1RF.html) 

[エリザベス(米ニュージャージー州)19日 ロイター] - 米ニューヨーク・マンハッタンなどで17日発生した爆発事件に関与した疑いで指名手配されていたアハマド・カーン・ラハミ容疑者(28)が19日、警察との銃撃戦の後、拘束された。

引用 時事通信http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092000072&g=int

【ベルリン時事】18日のベルリン市議会選挙で「反難民」を掲げる新興右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進し、国政与党が大きく後退した結果を受け、ドイツのメルケル首相は19日の記者会見で、中東などからの難民受け入れ対応に問題があったことを認めた。

 難民への寛容姿勢を貫く首相の方針には、国民の不満が根強い。首相としては、こうした世論に配慮することで、来秋の連邦議会(下院)選までに国民の反発を和らげたい考えとみられる。

この問題は複雑である。

 難民の多くは祖国の戦争のため追われるように国を脱出した格好である。その多くは、戦争のない暮らしをし、人間的な生活を送るためである。彼らは、決して祖国を忘れたわけではない。一時の生活の安定を求め自分たちを受け入れてくる社会があればどこでもよいと考えている。

 しかし、問題はその先にある。最初は、受け入れてくれるならどのような社会でも良いと考えていた難民も、いざその社会に慣れてしまうと自分たちが虐げられているように感じ始める。それは、当然のことである。なぜなら、社会は誰にでも平等に門戸を開いてくれているわけではない。受け入れらるためには競争がありチャンスを得ることが必要である。それが無ければ門は開かれないまま終わる。それが運命だと受け入れられる人間ばかりであれば何も起きないが、それは受け入れがたい処遇であると思わずにはいられない人は一定割合存在する。

 難民のために社会は受け入れたはずなのに、その受け入れた難民たちも社会があり個性がある。そしてやがて受け入れた社会の今までの構造が変わり始めてくる。最初は、生まれながらそこに住む人が100%近かったのが、難民を受け入れることで50%になってしまえば、元からそこにあった風習も変容してくる。それは社会が変わったことと同一である。

 その後、従来から生活する人の割合が50%を切るようになればそこに元からいる人たちは、徐々に自分たちの仲間の多い地域に移住していく、やがて少数派になった地域は、あたかも独立した国家のようなものが生まれてしまう。

 難民たちが自分たちの祖国の風習や宗教を捨て去らなければ同化することはできない。もし世界が一つになれるようにするには、生まれた祖国の風習を捨て、自分たちの信ずる宗教を捨て去らなければ国境を無くすことは不可能である。

 どのようにして習慣や言葉が違う人たちが共同で暮らせるような社会を築けるかどこかで試す必要がある。むやみやたらと受けいるれことの弊害が生まれてきてしまったと思う。

 果たしてあなたの生活している住まいの近くに、ほかの国の人が大勢押し寄せてきたとしたらあなたの生活は今まで通りになるだろうか?それをそのまま受け入れることができるだろうか?自問する必要がある。