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 晴れ、気温は4度。朝日が明るくて外気温は高そうなのだが、実際外に出てみるとやはり寒い。この日差しで薄着でも歩けると誤解する人がでる可能性もある。


引用 朝日新聞http://www.asahi.com/articles/ASKB076QHKB0UTIL06L.html) 

神奈川県座間市緑ケ丘6丁目のアパートの室内で9人の切断された遺体が見つかり、このうち1人の遺体を遺棄したとして死体遺棄容疑で逮捕された職業不詳、白石隆浩容疑者(27)が「9人全員を殺した」などと供述していることが、警視庁への取材でわかった。「金銭やわいせつ目的だった」とも話しているといい、同庁は詳しい動機や殺害方法などについて調べている。

 今朝のニュースはこれ一色である。何故9人も殺害したのかという疑問が沸くし、何故これ程多くの人を殺しても見つかるまで時間が掛かったのかということである。

 容疑者は、このアパートに転居したのは、今年の8月で3か月しか経っていない。見つかった遺体は既に白骨化していたということだから、何人かの白骨化した遺体を運び込んだ可能性が高い。

 この世の中にこういった人間もどこかに存在するのは確かである。それを見つけ出してこれから起こるであろう犯罪を防ぐことは許されるはずもなく、事件が起きてからしか犯罪者を逮捕するしかない。


引用 朝日新聞http://www.asahi.com/articles/ASKB06CTXKB0UHBI03T.html) 

スペインからの独立を目指す同国北東部カタルーニャ自治州のプッチダモン前州首相が31日、スペイン国外で政治活動をし、独立運動を指揮していく方針を明らかにした。同氏は、憲法違反を重ねて独立への動きを進めたとして中央政府に解任されており、司法当局が反乱罪などの容疑で立件に着手している。事実上の「亡命政権」で、中央政府に対抗していく狙いだ。

 以前、長文で記事を書いたが、カタルーニャの独立問題である。今のところ、カタルーニャ州自治権は無効になり、スペイン政府が統治する形になり、独立を扇動した反逆罪で訴追され、その前に前州首相が国外に亡命したところが今の現状である。

 この問題は、根深いものがある。一日本人がとやかく言ってもただの戯言であるのは重々承知である。もし、この問題を日本で語るなら沖縄が独立宣言をした感じか?しかし、日本では各都道府県に自治権は認めてはいないので、その例えは不適切かもしれないが、沖縄自体も古くから住む人をウチナーンチュと呼び、それ以外の人をナイチャーと呼ぶ、それと同様の表現で、北海道に古く住む人は本州方面を「内地」と呼ぶ。自分たちは道産子である。そういった呼び方ひとつで印象は大きく変わる。自分たちと他所の人という関係である。

 道産子の多くは、内地から開拓のために渡ってきた人が殆どである。出身を言えば多くは東北であり、日本全国から移住してきた人達を祖先に持つわけで、もっと前から住んでいるアイヌの人たちから見ればその人たちはシャモと呼ぶ別な人たちなのである。

 人間は、物に名前を付けることで区別する。例えば、箸、茶わんと付けるとそれは全く別のものであるという区別である。例えば同じコップがあり、そのコップが色々な色で塗られていれば赤いコップ、青いコップと区別をつける。その名前を付ける行為そのものが分裂を生むのだと思う。

 例えば、肌の色で白人、黒人、黄色人種と区別する。更にその肌の色以外でも外見で区別する、髪の毛の色であったり、服装であったりするその区別が何かを分ける切っ掛けになるわけである。

 本来なら元々人という分類に属し同じ仲間だと思っていても、住む場所、肌の色が違えばそこから何らかの区別が始まるのは、一種の本能のようなもである。

 すこし、例えが長くなったが、カタルーニャも同じである。そこに住む多くの人が先祖代々その土地に住んでいなくとも、そこに住み続けることで何らかの影響を受けていく。そして、そこに住む人とそうでない人を区別する言葉が生まれる。その言葉が生まれると既に分類が始まる。あの人は仲間で、あの人は仲間ではないという具合にである。例え、その分類した仲間同士でも外見の違いがあり、その中でも別れていても、いったんその分類名で集まると連帯の意識が高まってくる。

 道民でいえば道産子という言葉がそうである。考えが違っていても共通のキーワードの元に一種の仲間意識が存在し始める。それは、人間が集団生活を始まったと同時に生まれたはず。そのルーツは、共通の人間の性格として生きながらえてきた。

 この先も、世界の至る所で区別というものがはびこる。それは、人間の本能なので如何ともしがたいことなのである。