差別的表現

 薄曇り、気温は17度.これからまた気温は上がりそうである.

 

mainichi.jp

 差別的な表現の解釈は難しい.その一つは、見る人の心の背景により解釈が異なるからである.その一つの例として挙げるのは、擬人化した犬や猫が登場するCMである.

 犬や猫を愛玩動物の範囲でくくれば可愛いという感情を持つ人もいるだろうし、人を動物に例えるとは失礼だと思う人もいる.

 それに対して抗議の言葉を上げなければその声は届かないし、それが無ければその意見は無いと同じになる.

 今回の件、大きな反響は無かったが、ネット上のイラストである.世界中の人が対象になり、その一部が抗議の声を上げればどこから圧力が掛るか判らない.それを察知して県が事前に削除した形である.

 

 何が問題なのか?と思われるかもしれないが、大きな抗議が無いのにそれを警戒して取り下げる或いは先に検閲しそもそも表示しないという行動は、無言の圧力に屈するものである.

 

 昔から抗議活動は多くあった.更にそれを目的に設立された団体もあった.彼ら彼女らは、何かを標的に団体で自分達の主張を述べ、その関係先に押しかけ声を張り上げる.マスコミはその騒ぎを聞きつけ何故そんなことを起こすのか取材し、面白いと思えば記事にして世間に伝える.この時点で抗議活動を行ったグループは目的を達したことになる.

 そして、そういった行動の積み重ねが無言の圧力となり、正当な行為を行おうとするグループに行動を躊躇わせることになるのである.

 そういった行為は、右も左も同様に行う.自分達の主張をがなり立て相手を委縮させる.そして自分達の主義主張を認めさせようとする.更に面倒なことは、そういった主張をする人たちは、自分達の非を認めようとしないし、その主張を取り下げることはまずもってしない.自分達の主張が正義なので対立する人たちが述べる主張は雑音と同じである.所謂聞く耳を持たないというやつである.

 今回の件は、何を訴えているか、その意味を理解してもらえるかであろう.一つの問題点として上げるのなら人物の肌の色だろう.この肌の色というのが問題で、ある特定の人たちを対象にしてみられるということを日本人の多くが理解していない点であろう.日本国内の一地域などの限定されたところでしか見られないというのなら見過ごされてしまうことも有ろうが、ネットは特殊であり情報は世界を駆け巡る.

 

 昔、言葉狩りというのがあり、それを恐れる意味もテレビ、ラジオなどは自主的に放送禁止用語というものが作られた.形は自主規制だが、それが世間一般には徐々にそれが暗黙のルールとなり、その言葉を発することが憚れるようになった.

 確かに公共の電波で聞く場合、対象が不確定多数の人になるため、不快と思う人がいればその放送は成り立たない.しかし、自主規制があたかも世間の常識を作り出すことに不安を感じるのも事実である.

 

 差別は、最初に書いたようにそれを見る聞く人の背景が異なるため受ける印象は大きく変わってくる.全ての人が不快に思わない発言や行動が求められるならお笑いなどは放送することが認め有られないことになるだろう.しかし、今でもお笑い番組は放送されている.そのアンバランスの上で社会は成り立っている.