雨上がり、まだ厚い雲が空に残るがこれでいったん雨は止んだようである。気温は22度。
雨上がりの朝は、空気が湿りヌワッとする。お盆も過ぎ朝晩はヒンヤリしてきたが、それと同時に何時もならカラッとした日が続くはずなのであるが、今年は雨が多そうである。
気候変動の一つの振幅みたいなものだろうが、人の記憶は曖昧なので本当は毎年8月は雨が多かったのかもしれない。そういった所が人間の記憶の曖昧な所で、小さな頃の夏休みの思い出などが混同してしまう。
例年どのような気候だったのか、今ならネットで調べればある程度のデータを拾う事も可能である。一昔前なら考えられないことであり、図書館に行ったとしてもその地域のデータなど存在しないはずであり、気象庁などのデータベースなどには簡単に民間人が手に入れることは不可能であったのだから隔世の感がある。
例えば検索窓に 「今年 多雨」などと言葉を入れるとそれなりに結果が返ってくる。それを見れば今年が特異的に雨が多いのかある程度理解できるはずである。
一昔前なら、そういったデータをどこかから手に入れ、分析し、答えを出すために夏休み全てを使わなければできないはずだったのに。
ここで出てくるのが、そんな簡単に回答を得られてしまう事の弊害である。知識がネットの向こう側にすぐ利用できる状態であれば、人間が頭の中に知識として蓄えていることが無意味になってしまう。
将来、コンピューターがウェラブルになり、動かす電力も人間が発するエネルギーが利用できるようになれば、コンピューターそのものを体に埋め込むことも可能である。そうなれば、違う国の言葉を発を自動翻訳し何の手間も無く会話ができるようになれば、言葉の壁を取り除くことも可能であり、辞書などが入っていればある程度の知識は自由自在に取り出すことも可能になるだろう。
苦手な計算も簡単にできるし、数学の問題もその解法を取り出すことが出来れば人が考える部分はどんどん小さくなる。本も新聞もネットからダウンロードできるようになれば、ニュース映像もその場で再生できれば現場に自分がいるような雰囲気に成るだろう。
更に、ネットで互いに情報を共有するようになれば、共有した集団があたかも一個の個のような存在に成り、その共同体が一つの人格を形成するようになる可能性もある。
そこまで行くと、人間の個性とは何かという事に成るが、今はやりのSNSでネット上のつながりが現実の繋がりよりも優先されている時代であり、それが拡張すればそういったバーチャルな関係が主で現実の環境は従という事に成るだろう。
そういった共有化された情報の中で生活する人間関係というものをどう作って行くかが将来の社会問題化しそうである。
何十年か後には、生まれた後すぐウェアブルな端末を体内に埋め込まれ、その後の教育はネット上で行われ、学校というものが必要なくなる可能性もある。学校の代りに集団で行動を学ぶため、体力をつけるためのスポーツ学校のような形態になってしまうだろう。その頃も団体スポーツはきっと生き残ると思うからである。
そんな空想が現実に成りそうな現代になってしまった。