行動と性格

 曇り、気温は11度。一時強い雨が降っていたがそれも上がり小康状態というところである。今日運動会の予定していた小中学校は早々と延期を決めた。そういった点は、昔と違い予報精度が上がったのだと思う。

 行方不明だった大和君は無事保護された。相当な強情張りらしい。この部分は、生まれ持った性格で何ともならないが、7歳でも本とかテレビ映画で夜中の恐ろしさを知っていたら暗闇を歩こうとはしないだろう。

 その点では、そういった知識を持っていなかったか、あるいはそういったことに良く言えば惑わされないあるいは鈍感だったのかもしれない。得てしてそういう子は注意も聞かず自分の思いつくまま行動に移し、親や教師を困らせる。

 ただ、それが何時までも続く訳でもなく、ある程度周囲との協調性を身に着けるようになると落ち着くものである。自分も小さいころは、何にでも興味を示しきょろきょろしていたため教師に落ち着きのない性格と通知表に掛かれてしまったが、今では落ち着きない性格が前面に出ているわけではない。

 人間の行動とは不思議である。子供だからおかしな行動をとるのではなく、おかしな行動をとるのは大人になっても同じだと思う。それを抑制するのは、やはり周囲の目を意識するからであると思う。周囲の目は、その大人の行動を抑止する強い圧力となり、周囲の自分の評価を極端に恐れると自由奔放な行動はとれなくなる。

 しかし、その周囲の目も気にしなくなると、周囲の反応が面白くなり人が目をしかめる行動をするようになる。いわゆるチンピラと呼ばれる若者などは、そういった行動をわざととることで自分の存在をアッピールし示威行動をするようになる。

 また、旅行などに行き自分のことを知る人が周囲にいなくなると途端に態度が横柄になる人も存在する。それは、誰も自分のことを知らないと思っているからである。

 そういった周囲の目は大人の行動を縛るし、本来持っている人間としてのモラルがあるとそれも抑止力になるのは間違いない。そうして、人は行動を抑制し周囲に正常な行動をとる人間として見られるのである。


 しかし、例外もある。それは、文明が違う国に入っていく時である。その好例が、江戸時代に訪れた外国人だろう。外国人にとって日本人は頭を丁髷に結い、布の衣を纏った不思議な人物に見えただろし、日本人にしてみれば髪の色や目の色が違う変な形の着物を着た宇宙人のような存在に見えただろう。

 西洋人が常識とする行動も、その当時の日本人にすれば異質で無作法で人の常識を知らない行動に見えただろう。あちらにしてもそうだろう。お互いの文化の違いが常識を非常識にする。そういう意味で澄み切った水に放り込まれた墨汁のようなものである。それが混ざりこむまでに何らかの攪拌が必要であり、それが落ち着くまで相当な時間を要する。その攪拌の結果が今の常識で、丁髷を結った大人が刀を差して歩いていれば不思議な目で見られるようになるわけである。